文=難波里奈 撮影=平石順一

「ここでしか飲めないものを」という想い
誰かとゆっくり語らうための空間もいいが、ひとり静かに珈琲と向き合えるお店というのも貴重だ。銀座一丁目駅4番出口を出たらすぐ、雨からも逃れられるような近さにある「十一房珈琲店」へは、珈琲の味わいはもちろん、その雰囲気を楽しみに向かう。

立派な焙煎機や珈琲豆の形にデザインされたドアノブを横目で見ながら、店内へ入ると出迎えてくれたスタッフからここで過ごすためのルールの説明を受ける。それは、3名以上での入店は不可であること、静かな店内ゆえ会話


「静けさを愛するあまり、少しの物音に心を乱されていたこともあったのですが、ある時スタッフに言われたんです。『お客さんは敵じゃないですよ』って。その瞬間、目が覚めました」と話してくれたのは、珈琲を淹れる仕草やその佇まいについ見入ってしまう雰囲気の持ち主、店主の長谷川能一さん。
サービス業を営む人たち誰もが悩まされたコロナ禍に、こちらも例外ではなく集客に苦戦するが、人が少なくしんとした雰囲気を長谷川さんは妙に気に入ってしまった。そこで、従来までとはがらりと店の在り方を変えた。そのことで常連客が来なくなったりもしたが、「僕の城なのでやりたいように」と、今は静寂を好む人たちを大切にしている。


脱サラした後、珈琲の世界へ進むきっかけになったのは、かつて柳通りの地下にあった「ベシェ珈琲店」の店主である及川俊彦さんとの出会いだった。大学生の頃、先輩に連れられていった今は無き神保町の「アダイブ」という店の、物音1つ立てることさえも許されないようなその落ち着いた雰囲気に惹かれ、使用されていた珈琲豆から「ベシェ珈琲店」を知る。
「そこでアルバイトをしよう」と初訪問時にそのまま面接を受けるが、あいにくそのときは人員に空きがなく、断られてしまう。その後、ベシェと関係がある自由が丘の「十一房珈琲店」を経て、尾山台の「ヴェルデカーナ」では10年以上働くも、その間に空きが出たベシェで友人が働くことになるなど、もやもやした気持ちも少なからず抱えながら過ごす日々。

それからしばらく経ち、先述した友人が2008年に独立して自分の店を持つためベシェ
その後、2015年には店長が退職することになり、お店の存続に
時間はかかったが、きっと最初から及川さんとの縁は繋がっていた

そんな長谷川さんの目指す味を一言で表現してもらうと「まろい」。ネルドリップで丁寧に淹れられるため、まるみがあり、口当たりが良いことを表すそう。それまで、珈琲は苦いものという認識を持っていた人が「あまくて、ここではブラックで飲める」と言うことも多い。


店が長い歴史を持っていて、評判も固定化されていくと、新たなチャレンジをするのは勇気がいることだと思うが、「ここでしか飲めないものを」という想いから、正統派の珈琲だけではなく、イチゴの香りがするインフューズドコーヒーなどもメニューに加えるところに長谷川さんの飽くなき好奇心やその研究熱心さを感じられる。また、常連客には好みを知った上で、豆を焼いてからの時間を考慮し、その時もっともお薦めのものを出すこともあるそう。


一見寡黙な雰囲気を漂わせている長谷川さんだが、珈琲について1尋ねると10以上話してくれる。「今までで一番話過ぎちゃいましたね」と微笑む様子を見て、本当にこの店のことや珈琲を愛しているのだ、と思う。と同時に、すっかり自分もこの店に魅せられてしまったことを知る。ここは決して「注文の多い珈琲店」ではなく、静寂と一杯の珈琲をじっくりと味わいたい同志たちが集まるユートピアなのだ。


