文=難波里奈 撮影=平石順一

1枚のレコードとの出会いから始まった

「〇〇が人生を変えた!」、というのは少しオーバーに思えなくもない言葉であるが、亀戸にある「珈琲と音楽クレシェンド」のオーナー、金森静夫さんの話を伺ううちに、きっかけさえあれば起こりうることなのだと思うようになった。

 賑わう駅前から遠ざかるように住宅地のほうへ5分ほど歩いた頃、クレシェンドは突如現れる。普通の一軒家のように見えるが、扉の向こうからかすかに聞こえてくる音楽と看板が目印だ。

 店内に入って、誰もが驚くのは、その尋常ではない音楽再生機器の数ではないだろうか。取材より前に、プライベートで訪れたときにこの光景を見て、「きっと頑固なマスターがいて、一言でも余計なことを発したら『出ていけ!』と叱られてしまうのではないか」と、内心冷や冷やしながら席に腰を下ろした。

店の奥に並んだスピーカー、アンプは圧巻

 ところが、そんな不安はまったくの杞憂で、クレシェンド公式HPのQ&Aにも「アンプとスピーカーがいっぱいあるだけの普通の喫茶店です」と書かれているように、私語禁止のルールもなかった。

 実際、金森さんはとても気さくな方で、流暢にいろいろな話を聞かせて下さった。時は、金森さんが中学3年生だった頃に遡る。

お話も楽しいマスター、金森静夫さん

  高校受験を控えた金森少年は、勉強する傍ら、深夜ラジオを聞くのが日課だった。あるとき、そこから流れ出したフランス人歌手、ダニエル・ビダルが歌う「ピノキオ」に恋をしてしまう。軽快なメロディと、アンニュイでキュートな声(そして、想像より切ない歌詞)は、一度聞いたら確かに頭の中でぐるぐる回る。金森少年の自宅にはプレイヤーがなかったにもかかわらず、お小遣いでそのレコードを購入したのちに「どうしても聞きたい!」とアンプを自作したのが、すべての始まりだった。

「ピノキオ」のレコード。この曲のおかげでオーディオを趣味に持ち、やがてそれを生かした店をオープン。そして皆が集う場所に

 当時はオーディオブームもあり、売り場や部品も豊富だったそうで、秋葉原に足を運んではより良い音を求めて次々とアンプを自作していった。若さや情熱も手伝って1台を1日で作り上げることもあったが、現在は喫茶経営もあるため、1カ月ほどかけてゆっくり完成させるという。

店内で最も古いアンプは1975年に作ったもの

 今までにトータルで30台ほど生み出したそうで、もう充分に良い音楽を聞ける設備があるにも関わらず、いまだ作り続けている。金森さんをそんなにも駆り立てるのはいったい何なのかと尋ねると、「昔買い込んだ真空管がたくさんあるから形にしてあげたい」と、なんともピュアな答えが。

レコードプレイヤーは、かつて放送局で使われていた業務用。BGMは主にCDでオールディーズなど洋楽ポップス。最近は若者に人気のシティポップも

 クレシェンドに行ったことがある人なら分かると思うが、喫茶店にしては空間がやけに広い。まさか、たくさんのアンプを置くためだけにこのスペースを設計したのだろうかと思ったが、元々は両親が営むダンスホールだったという。

店内は喫煙だが入口の右側には禁煙スペースも

 幼い頃から電気が好きでエンジニアを夢見て、その後は野球選手になりたかったという金森さん。22歳の頃、正社員として勤めていた会社を「現地でカープを応援したい」という想いから退職する。そのときの同僚たちが餞別として送ってくれたのが、広島までの片道切符だったというから粋である。住む場所も決めないままに向かったが、飛び込みで喫茶店のアルバイト募集に応募し、運よく社宅のある仕事を得たそう。

 そんな経験を経て、東京へ戻り、ダンスホールを手伝った時期もあったが、お父様のご逝去により閉じることになる。そのタイミングと金森さんの勤めていた会社が倒産したことが重なったことから、クレシェンドが誕生した。

ペーパードリップで淹れられる珈琲。ドリッパーは堀口珈琲のもの

 広島での一年間の喫茶店アルバイト経験はあるが、ペーパードリップのやり方などは独学で身につけたそう。千歳船橋にある堀口珈琲の豆を使用し、1つ穴ドリッパーで丁寧に淹れて、棚に並ぶカップのほとんどはノリタケ……、ときたら、珈琲へのこだわりも並々ではないように思うが、そこは「そうでもない」とか。メニューにトースト類とカレーライスがあるが、あまいものなどはないため持ち込み自由、というおおらかさも面白い。

コーヒーはシティブレンド(写真)とフレンチブレンドの2種類。すっきりとした雑味のない味わい
こちらはフレンチブレンド。上品なノリタケのカップがうれしい

「だんだん強く」を意味する店名は、時代の流れに沿ってどんどん大きくなるようにという願いを込めてつけられた。26年という長い年月の間には「デクレシェンド」だったこともあった。しかし、2019年にドラマの撮影で使用されたことがきっかけで出演者のファンが多くやってくるようになったり、コロナ禍を経た現在では若者たちがたくさん来るようになってなんだかんだ救われている、と金森さんは話してくれた。

カレーは奥様の手作りで「作るたびに味が違う」と金森さん。具が大きく程よい辛さの「家カレー」がむしろ貴重と思える味わい。セットにはサラダとコーヒーも
アイスコーヒーはフレンチローストを約22gで抽出

「やる気がなくなるまではやるよ」と軽やかな金森さん。他にお客さんがいなければ、持参したレコードをかけてくれたりもする。真空管好きの人とのおしゃべりは大歓迎、とのことだが、こちらは音楽に詳しい人ばかりが集まる場所ではなく、ただ広い空間でぼんやりしたい人にも居心地のよい「街の喫茶店」であるところが最大の魅力なのだ。