文=難波里奈 撮影=平石順一
1枚のレコードとの出会いから始まった
「〇〇が人生を変えた!」、
賑わう駅前から遠ざかるように住宅地のほうへ5分ほど歩いた頃、
店内に入って、誰もが驚くのは、その尋常ではない音楽再生機器の数ではないだろうか。取材より前に、プライベートで訪れたときにこの光景を見て、「きっと頑固なマスターがいて、一言でも余計なことを発したら『
ところが、そんな不安はまったくの杞憂で、クレシェンド公式HPのQ&Aにも「
実際、金森さんはとても気さくな方で、流暢にいろいろな話を聞かせて下さった。時は、金森さんが中学3年生だった頃に遡る。
高校受験を控えた金森少年は、勉強する傍ら、深夜ラジオを聞くのが日課だった。あるとき、そこから流れ出したフランス人歌手、ダニエル・ビダルが歌う「ピノキオ」に恋をしてしまう。軽快なメロディと、アンニュイでキュートな声(そして、想像より切ない歌詞)は、一度聞いたら確かに頭の中でぐるぐる回る。金森少年の自宅にはプレイヤーがなかったにもかかわらず、お小遣いでそのレコードを購入したのちに「どうしても聞きたい!」とアンプを自作したのが、すべての始まりだった。
当時はオーディオブームもあり、売り場や部品も豊富だったそうで、秋葉原に足を運んではより良い音を求めて次々とアンプを自作していった。若さや情熱も手伝って1台を1日で作り上げることもあったが、現在は喫茶経営もあるため、1カ月ほどかけてゆっくり完成させるという。
今までにトータルで30台ほど生み出したそうで、もう充分に良い音楽を聞ける設備があるにも関わらず、いまだ作り続けている。金森さんをそんなにも駆り立てるのはいったい何なのかと尋ねると、「昔買い込んだ真空管がたくさんあるから形にしてあげたい」と、なんともピュアな答えが。
クレシェンドに行ったことがある人なら分かると思うが、喫茶店にしては空間がやけに広い。まさか、たくさんのアンプを置くためだけにこのスペースを設計したのだろうかと思ったが、元々は両親が営むダンスホールだったという。
幼い頃から電気が好きでエンジニアを夢見て、その後は野球選手になりたかったという金森さん。22歳の頃、正社員として勤めていた会社を「現地でカープを応援したい」という想いから退職する。そのときの同僚たちが餞別として送ってくれたのが、広島までの片道切符だったというから粋である。住む場所も決めないままに向かったが、飛び込みで喫茶店のアルバイト募集に応募し、運よく社宅のある仕事を得たそう。
そんな経験を経て、東京へ戻り、ダンスホールを手伝った時期もあったが、お父様のご逝去により閉じることになる。そのタイミングと金森さんの勤めていた会社が倒産したことが重なったことから、クレシェンドが誕生した。
広島での一年間の喫茶店アルバイト経験はあるが、ペーパードリップのやり方などは独学で身につけたそう。千歳船橋にある堀口珈琲の豆を使用し、1つ穴ドリッパーで丁寧に淹れて、棚に並ぶカップのほとんどはノリタケ……、ときたら、珈琲へのこだわりも並々ではないように思うが、そこは「そうでもない」とか。メニューにトースト類とカレーライスがあるが、あまいものなどはないため持ち込み自由、というおおらかさも面白い。
「だんだん強く」を意味する店名は、
「やる気がなくなるまではやるよ」と軽やかな金森さん。他にお客さんがいなければ、持参したレコードをかけてくれたりもする。真空管好きの人とのおしゃべりは大歓迎、とのことだが、こちらは音楽に詳しい人ばかりが集まる場所ではなく、ただ広い空間でぼんやりしたい人にも居心地のよい「街の喫茶店」であるところが最大の魅力なのだ。