文=難波里奈 撮影=平石順一
2024年6月にオープンした2号店
たくさんの古本屋が軒を連ね、歴史と文化がありながらも、ふらりと訪れた人にとって排他的ではない気さくさがある神保町。小さなエリアにそれぞれの特色がある個人店やチェーン店が入り混じるこの街と、似たような場所を探すのはなかなか難しいのではないだろうか。
「自分の店だけじゃなくて、この街で働く人たちみんなを盛り上げていきたい」と話すのは、以前こちらでも綴った神保町の名店、“トロワバグ”のオーナーである三輪徳子さん。知り合ってから10数年経つが、その間に幾度となく聞いた言葉だった。
トロワバグは創業してから48年が経過し、その時に建てられたビルも同じだけ年を重ねている。仕方のないことだが、水回りなど老朽化が進み、都度修理が必要なことも増えてきた。「この場所で営業できるのはあと10年くらいではないだろうか」、という不安が頭をよぎり始め、三輪さんの中では、2つの考えが行ったり来たりする。それは、建物の終焉とともにすっぱり辞めるか、それともどこか別の場所に移転して続けていくのか……。結果、「身体が元気なうちは、両親が残してくれたこのお店を守っていきたい」と思い至り、今のうちに新しい拠点を作っておくことが必要になった。
とはいえ、どの場所でもいいわけではなく、やはり大好きな神保町で、という想いがあった。そんな中、長い間トロワバグの店内に彩りを添えてくれていた生花を仕入れていた花屋が店を畳むことに。その空間を飲食店として利用してくれる知り合いを探していて、旧知の仲だった三輪さんに声がかかった。「やらない理由がない!」とは思ったものの、運営していくためにはスタッフが必要となる。そこで白羽の矢が立ったのはトロワバグに勤めて6年、昨年の東武百貨店での純喫茶催事でもその手腕を発揮したスタッフの緑川皆さんだった。
緑川さんは、幼い頃に母と連れ立って神保町にやってきて、本を買っては喫茶店へ行くという休日を過ごしていくうちに、店で飲む珈琲の美味しさに気付いたのだとか。大学生になったばかりの頃は、「お金がもらえるなら」という理由から、いろいろな職種のアルバイトをしていたこともあったが、「せっかく時間を使うなら、楽しい方が有意義だ」と思い、居心地の良いところに自分の身を置こう、と当時募集があったトロワバグに応募した。
そこから数年を経て今年大学を卒業した緑川さんは、一般企業に就職するのではなく、自分で珈琲屋をやりたいという夢を持っていた。そのタイミングで三輪さんからヴェールの店長になることを打診される。正直な話、自分が思い描いていた店舗像とは違っていたのだが、ここで経験値を積むことも自分のためになると考え、即答したのだそう。そんな流れのなか、2024年6月20日にオープンしたのが “トロワバグヴェール”だ。
場所は、JR水道橋からも東京メトロ神保町駅からも徒歩6分くらいのところにある。個人店が立ち並ぶすずらん通りはすでに飽和状態であるため、昔から好きだった錦華通りの近くを選んだ。
メニューは飲み物と、食事になる1種類とデザートになる2種類のクレープのみ。なぜメインメニューをクレープにしたのか尋ねると、「神保町で出しているお店がなかったから」と明確な理由。とはいえ、トロワバグの2号店であることを感じさせる要素もきちんとある。
例えば、とろ~りトマトグラタンクレープは、トロワバグの看板メニューであるグラタントーストと同じベシャメルソースを使用している。トーストとクレープ、見た目はまったく違うが、その味わいに、かねてからのグラタントーストファンも目を丸くして「美味しい」と評判も上々。
また、店内に古き良き雰囲気を感じること、どこかに女性らしさを感じること、同じ品質の珈琲を出すこと、という三輪さんの考える「らしさ」を大切にすることで、トロワバグを愛してくれている人たちをがっかりさせることがないよう、気を付けている。
トロワバグでも飲めるブレンドはもちろん、自家焙煎の豆の珈琲を飲めるようで、忙しくない時間帯は裏メニューとして注文することができる。2、3年前から自宅で手網焙煎を始め、昨年秋からは手回し焙煎を任され、珈琲に対しての熱い情熱をもつ緑川さんがいたからこその新メニューだろう。
「一通りの知見を持った上で自分の一杯を作っていきたい」という緑川さんの珈琲はこれからますます進化していき、三輪さんの言う「みんなをびっくりさせるようなことと、揺るがないものを守ることの両立」を表している一つのように思う。
今は、まだ周りに店もなく、人の通りは多くない。しかし、近い将来、ヴェールが灯した光に人々が集まる未来はたやすく想像できる。「ゆっくりできる時間と、とにかく良いものを提供したい」という三輪さんと、「トロワバグよりお客様との距離が近い分、より一対一を意識した細やかなサービスをしたい」と緑川さんの笑顔に、ここは神保町の喧騒に疲れたときの新しい避暑地のような場所になっていくのだろうと実感した。