大学時代に発表した小説を永井荷風に激賞され、作家に道を歩み始めた谷崎はやがて日本を代表する文豪として揺るがぬ地位を確立しました。関東大震災を機に関西に移り住んだことが、その人生と作品に大きな影響を与えたのです。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)

チャキチャキの江戸っ子で神童
谷崎の人生の岐路は37歳で関西に移住したことです。その理由は後述するとして、まずは谷崎の生い立ちから、文豪となるに至った経緯、そして谷崎の作品を紹介したいと思います。
明治19年(1886)、谷崎潤一郎は日本橋区蛎殻町二丁目十四番地(現在の中央区人形町一丁目七番地)に生まれます。祖父・久右衛門は活版所や洋酒などを扱う商人として成功した人物でした。父・倉五郎は外神田の酒問屋の三男で、谷崎家へ婿養子として入り、三女の関と結婚します。五男三女をもうけますが、長男は生後すぐに死亡したため、次に生まれた谷崎は戸籍上、長男として届けられました。
祖父に可愛がられ裕福な環境で育ちますが、祖父が亡くなった後、父の商才のなさから事業は不振となり、徐々に家計は逼迫します。
明治34年(1901)、15歳になった谷崎は中学への進学は諦めざるを得ない状況でしたが、米穀仲買店を営む伯父の援助もあって府立第一中学校(現在の日比谷高校)に進みます。
谷崎は神童と呼ばれるほど頭の良い子どもでした。文章を書くことは余技のようだったと言います。そんな谷崎が府立一中の1年生の時、学友会雑誌に書いたのが「厭世主義を評す」という漢文です。冒頭だけ、これも前回の『刺青』に引き続き、音読してみて下さい。
爛漫たる桜花、美ならんと欲して多く狂風の散らす所となり、皎々たる秋月、明ならんと欲して時に痴雲の妬を免れず、柳腰花顔の佳人は去つて墓下に一片の白骨を留め、一世の賢士は空しく世に知られずして、蓬蒿の下に老ゆ、此に於てか、潮州の風雲、徒に志士の跡を弔ひ、太宰府の明月、空しく忠臣の腸を断つ。
辰野隆『忘れ得ぬ人々と谷崎潤一郎』より(中央公論社刊)
内容は「厭世主義なんてよくないものだ。我々は世の中が嫌だと思っているようなところがあるが、もっと外に出て、自分たちの文化を作り出していかなければいけない」ということなのですが、「厭世主義」なんていう言葉は、谷崎にはまったく似合わない言葉ですし、そのことを朗々と漢文で書く力があったことは驚くほかありません。
谷崎は1年生の1学期終了後に3年級に飛び級します。まもなく父親の事業が失敗して学費に困りますが、この時、学業優秀だった谷崎のために小学校の担任だった稲葉という教員が紹介してくれたのが、築地精養軒の主人・北村家の住み込みの書生兼家庭教師の口でした。
明治38年(1907)、中学を卒業した谷崎は、伯父と親友・笹岡の父親からの援助を受けて、第一高等学校英法科を出ると、明治41年(1908)9月、19歳で東京帝国大学に入学します。周囲が望んでいたエリートコースの法科ではなく、谷崎が入ったのは国文科でした。

帝大では、後に劇作家として活躍する小山内薫が創刊した文芸同人雑誌『新思潮』に参加し、小山内薫、和辻哲郎らと第2次『新思潮』を創刊します。ちなみに第3次は大正3年(1914)に芥川龍之介、山本有三、久米正雄、菊池寛らが創刊。昭和62年(1987)の第20次まで続き、第21次が令和4年(2022)に復刻しています。
谷崎は明治43年(1910)の創刊号に「誕生」、11月号に「刺青」、12月号に「麒麟」を発表しますが、あまり反響はありませんでした。その翌年には森鷗外を中心に木下杢太郎、石川啄木、吉井勇らが創刊した文芸誌『スバル』に戯曲「信西」を発表。しかし、2月には第2次『新思潮』は廃刊となり、7月、学費未納で谷崎は帝大を退学になります。
ところが、雑誌『スバル』に「少年」、「幇間」という短編小説が掲載されると一気に注目が集まります。とくに慶応義塾文科の機関誌として創刊した雑誌『三田文学』に、主幹の永井荷風が書いた谷崎を激賞する論評「谷崎潤一郎氏の作品」が掲載されたことで、新進作家としての地位が確立されたのでした。
この連載の芥川龍之介の回で紹介した、24歳の芥川が夏目漱石に賞賛されて作家への道が拓けたように、24歳の谷崎が永井荷風に見出されたことは、谷崎の小説家人生にとってとても大きな出来事でした。谷崎は生涯にわたって荷風を慕い、敬います。
文章を書くのは自分にとっては余技だと言いながらも、初期作品からすでに谷崎の美的感覚は突出していました。「刺青」によって注目された谷崎は「悪魔」「羹」「悪魔続編」「恋を知る頃」など話題作を次々に発表、ヨーロッパの世紀末芸術になぞらえ「悪魔主義の作家」と呼ばれました。