千代との結婚と小田原事件
大正4年(1915)5月、谷崎は向島の芸者だった石川千代と結婚し、翌年、長女・鮎子が生まれます。谷崎は、ほんとうは千代のお姉さんだった芸者・初と結婚したかったのですが、それが叶わなかったので千代と結婚したとされています。気性が激しい初に比べ、千代は貞淑でおとなしい女性でした。
しかし、結婚後まもなく千代の15歳の妹・せい子を引き取って一緒に暮らしたことで、夫婦は不仲になってしまいます。美しく、奔放なせい子に、谷崎は魅かれてしまうのです。
千代と鮎子が暮らしていた小田原の谷崎の家を、たびたび訪ねたのが谷崎の後輩の詩人、小説家の佐藤春夫です。佐藤は谷崎に虐げられているという谷崎の奥さん・千代の悩みを聞くうちに同情して、やがて深い仲になってしまいます。
千代と離婚して、せい子と結婚したいと考えていた谷崎は、千代を佐藤に譲ることを約束するのですが、せい子にその気がないことを知り、その約束は果たされませんでした。大正10年(1921)、怒った佐藤が谷崎に絶交状を突きつけます。
この絶交は、日本文学史上「小田原事件」と呼ばれています。谷崎は、この事件を機に、小田原から横浜に移ります。
ところで、谷崎にも苦手なものがありました。地震です。
谷崎は明治27年(1894)6月20日、小学校4年生の時に明治東京地震を経験しています。東京湾北部を震源として発生した南関東直下地震でマグニチュードは7.0、震度は6と推定されている大きな地震でした。以来、谷崎は地震恐怖症になっていました。
それから29年後、大正12年(1923)9月1日、谷崎は芦ノ湖畔のホテルを出て小涌谷に向かうバスの中で関東大震災に遭うのです。
小涌谷ホテルで一夜を明かしますが、崖崩れがあったため当時住んでいた横浜の本牧へは帰ることができず、そのまま兵庫県芦屋の友人宅に避難します。そして9月9日に、一度、神戸から横浜に帰りますが、あっという間に荷造りをすると家族と一緒に関西に移住してしまうのです。
この時谷崎は37歳でした。「10年後に新しくできる東京は、本当に自分たちが作った東京になるだろう。自分はそれを待つ」と言ったそうです。1868年に「江戸」は「東京」と改称され、年号を「明治」とあらためて近代化が進みましたが、それは銀座の煉瓦造りなどの町並みなど表面的なことだけで、まるで張りぼてじゃないかと谷崎は思っていたのです。
ただ、関東大震災後10年経った東京を見た時、谷崎は、「これじゃ駄目だ」と思ったそうです。関西のほうが日本の良さが残っていると思ったのです。