『痴人の愛』のモデルと3人の妻
谷崎は初め京都に住みますが、翌年には武庫郡本山村岡本好文園(現・神戸市東灘区岡本)で暮らします。
関西で書いた最初の長編が『痴人の愛』でした。震災の翌年の1924年から25年に、前半は大阪朝日新聞、後半は雑誌『女性』に連載された小説です。平凡なサラリーマンの主人公・河合譲治が、小悪魔のように奔放な女性ナオミに翻弄されていく姿を描いたこの作品は、「ナオミズム」という言葉が流行するほど世間の注目を浴びます。このナオミのモデルとは、谷崎が魅かれた義妹のせい子でした。
「ナオミちゃん、これからお前は私のことを『河合さん』と呼ばないで『譲治さん』とお呼び。そしてほんとに友達のように暮らそうじゃないか」
と、引越した日に私は彼女に云い聞かせました。勿論私の郷里の方へも、今度下宿を引払って一軒家を持ったこと、女中代りに十五になる少女を雇い入れたこと、などを知らせてやりましたけれど、彼女と「友達のように」暮らすとは云ってやりませんでした。国の方から身内の者が訪ねて来ることはめったにないのだし、いずれそのうち、知らせる必要が起った場合には知らせてやろうと、そう考えていたのです。
『痴人の愛』より(新潮文庫)
なんと艶のある文章でしょう。行間から色気を滲ませる文章というのでしょうか。谷崎は本を出版するとき、版下のデザインやフォントにまでこだわりますが、自分の文章を演出するための工夫に余念のない人でした。
ところで、大正15年(1926)の年末、谷崎は、東京から遊びに来た芥川龍之介と大阪の旅館に泊まっていました。
芥川が東京に帰る日のことです。ある女性が、2人にお目に掛かりたいと言っていらっしゃいますと、宿の女将から言われます。その女性は、大阪、船場の木綿問屋「根津商店」の子息・根津清太郎という人の奥様で、芥川のファンだという人でした。
ところが谷崎は、人妻である松子に惹かれ、逢瀬を重ねていくことになるのです。芥川は、この頃すでに、「ぼんやりとした不安」を抱えていたようで、女性にも興味がなくなり、翌年、夏、自殺してしまうのです。
松子への谷崎の愛は、盲目的でした。
2014年、谷崎の遺族が保管していた松子らに書いた手紙、288通が公開されました。書簡の中で谷崎は、私は松子に対して、ひとえに「従順」ですと記し、自分のことを「潤一郎」ではなく「順市」として「御気に召すまで御いじめ遊ばして下さいまし」と書いているのです。
結局、谷崎は、千代と昭和5年(1930)に離婚し、千代は佐藤春夫と再婚します。谷崎、佐藤、千代の連名の挨拶状を知人に送ったことは、「細君譲渡事件」として報道され、大きな話題になりました。
谷崎は千代との離婚の翌年の昭和6年(1931)、21歳年下の丁未子(とみこ)と再婚していましたが、わずか2年で別居し、根津清太郎と離婚が成立した松子と同棲しました。昭和10年(1935)に丁未子と協議離婚すると、正式に松子と結婚します。
芥川が作ってくれた谷崎と松子の初めての出会いから10年後のことでした。松子は谷崎文学に大きな影響を与えますがこれについては、次回、紹介しましょう。