文=藤田令伊 

大原美術館は、岡山県の倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家・大原孫三郎が1930年(昭和5)、前年に死去した画家児島虎次郎を記念して設立された、日本最初の西洋美術中心の私立美術館。2021年9月28日より、再び開館。

日本に2点しかないグレコの作品

 大原美術館に所蔵されているエル・グレコの《受胎告知》は、有名な美術館にある著名な画家の絵なので、「知られざる」とはいえないかもしれない。しかし、これが日本にたった2点しかないグレコ作品の一つだということは案外知られていないのではないだろうか。

 エル・グレコ、本名ドメニコス・テオトコプーロス。エル・グレコとは「ギリシア人」という意味であるように、ギリシアのクレタ島生まれで、ヴェネツィアやローマで画業修行を積んだのち、スペインへと活動の場を移した。多くの絵を描いたが、日本にあるのはわずか2点ということで、大原の所蔵品はごく貴重なものとなっている(他の1点は国立西洋美術館の《十字架のキリスト》)。

 

伝統的な描き方から隔たった宗教画

エル・グレコ(ドメニコス・テオトコプーロス)《受胎告知》 1590年頃-1603年 油彩、カンヴァス 109.1×80.2㎝ 大原美術館

 グレコの絵は宗教画が多いが、画風は伝統的な描き方からは隔たっている。秩序と調和のとれた静かな世界が描かれるルネサンスの古典主義とは対照的に、グレコが描いたのは動きがあって調和が破られた世界である。

 本作も題材自体は、マリアが聖書を読んでいるときに神の使いの大天使ガブリエルがやってき、神の子を身ごもったことを告げるというお決まりのシーンだが、やはり描きようが定番とは大きく違っている。 

 古典主義では厳かに畏まってマリアに報告するのが通例のガブリエルに対して、ここでのガブリエルはバサバサと羽ばたきの音が聞こえてきそうなほど仰々しい現れ方をしているし、背景には稲妻(のようなもの)が炸裂していて静寂とはまったく無縁である。

 そもそもマリアとガブリエルの位置関係が変といえば変である。ガブリエルがマリアの右上にいるため、マリアはおのずとガブリエルを見上げる格好となっている。ふつう、上の位置は上位の者が占めるものだが、ここではマリアのほうが下となっている。

 さらにマリアはガブリエルの出現に驚いて上体を大きくひねっているが、聖書の置かれている場所からすれば、マリアはもとの向きからほとんど正反対の方向を向いている。マリアの姿勢は実際にやってみればかなり辛く、現実にはありえないほどだ。