撮影:平石順一

「エチオピア グジ アナソラ アナエロビック」は、豆を無酸素の状態で発酵させる製法で、赤ワインのような甘酸っぱさにチョコレートのようなビター感の余韻が印象的な一杯

以前の空間を尊重しつつ生まれた、自分色の店

 新宿から快速で一時間あまり。かつて養蚕や宿場町として栄えた青梅の街には、今も古い路地を猫がのんびりと横切るような、穏やかな時間が流れている。そんな街並みの片隅に、2024年6月、一軒の喫茶店が静かに明かりを灯した。名は「カフェ エスポワール」。ここはかつて「カフェ・ド・クラージュ」として30年以上愛され、街の止まり木となっていた場所。

 この空間に新たな息吹を吹き込んだのは、井口高志さん。前職は銀行員として都心の喧騒の中で働きながら、自転車競技の世界に身を置くという多忙な日々の中、心の拠り所としたのが「喫茶店」という静謐な文化だった。しかし、都会での生活に心身の限界を感じた井口さんは、「静かな場所で暮らしたい」という切実な願いを抱くようになる。郊外から東京までの長距離通勤を経験しながら、自らの再起の地を探し求め、やがて立川より西、多摩の山々が迫る青梅のやわらかな空気感に自らの居場所を見出したのだ。

珈琲を淹れる井口さん

 2024年2月に退職すると、すぐさま自らの手で店づくりに着手。創作を愛する井口さんにとって、内装のDIYは苦ではなく、30余年の歴史が刻まれた重厚な空間を尊重しつつ、漆喰の壁を塗り替え、自らの色を重ねていった。そうして「クラージュ」から「エスポワール」へとバトンは受け継がれた。

特徴的な梁や重厚なカウンターはそのまま、新たにテーブルや椅子、照明を配置。カウンター裏の食器棚も手作り
ステンドグラスが好きという井口さん。店内にはいくつもの華やかなランプが飾られている

「カレーなら誰もが好きであろう」という考察から当初はカレー屋を営むことも検討したが、最終的に選んだのは、パンやケーキを焼く母の香りに包まれて育った自身の原点である「喫茶店」の形だった。看板メニューのバスクチーズケーキは、プレーンからチョコ、季節のフレーバーまで、8種ものバリエーションから日替わりで提供される。毎日丁寧に焼き上げられるその味を求め、午後には売り切れてしまうことも珍しくないほどの人気。

外側の香ばしさとなめらかなクリームチーズの舌触りが絶妙な「バスクチーズケーキ」。合わせた珈琲は「ゲシャ G1 カーボニックマセレーション」
ランチで人気の「ナポリタン」は、卵付きの「鉄板ナポリタン」も。ケチャップの甘さと卵のまろやかさが絶妙にマッチ

 また、珈琲への探求心にも、アスリート時代から変わらぬ「のめり込む」性格が表れている。青梅の老舗焙煎所の焙煎士を師と仰ぎ、独学で焙煎技術を追求して、ペーパードリップで一滴ずつ雑味のない香りを抽出する日々。店内で定期的に行われる焙煎を学ぶワークショップは、「自宅でも美味しい一杯を楽しんでほしい」という想いと、文化を伝えたい気持ちから始めた。

店内にある小さな焙煎機で、日々奮闘中
注文を受けてから丁寧に淹れられる珈琲。「Silk Dripper」というお気に入りのドリッパーが、雑味をなくし珈琲の甘さや複雑な質感を引き出しくれるそう
ナチュラル製法により、クリアな質感と滑らかな甘みが飲みやすい「エチオピア イルガチェフG1 コンガ」
ライチのような甘い酸味が感じられる「コロンビア エルパライソ ダブルアナエロビック ライチ」。フルーツティーを飲んでいるかのような味わい

 店名の「エスポワール」は、フランス語で「希望」を意味する。かつて自身の救いとなった喫茶文化を、今度はこの街で誰かに手渡していく。近隣の飲食店店主たちからも「息子のようだ」とあたたかく応援されている井口さんが一杯の珈琲に心をも注ぐその真摯な営みは、これからも青梅という街で暮らす人々の心に深く根を張っていくことだろう。