文=難波里奈 撮影=平石順一

目指すのは「100人が100人美味しいと言う珈琲」

 銀座の一角に、昭和の時代から変わらず、時間がゆっくりと流れる場所がある。「和蘭豆」は、1972年に創業して以来、半世紀以上にわたって変わらぬ味とスタイルを守り続ける老舗だ。特に人気なのはアイスコーヒー「モカ・アイスド」。実は、今では一般的となったミルクと砂糖を入れて提供するスタイルを日本で最初に提供した店が、こちらだと言われている。

大きな窓から街角が望める店内。夜になるとまた雰囲気が変わるのも魅力
写真は、創業当時の外観

 使用される珈琲豆は、モカをメインに、気温や湿度を見極めながら三段階に分けて自家焙煎される。特徴的なのは、ブレンドしてから焙煎するのではなく、個々の豆を別々に焙煎してからブレンドする点だ。その豆を使って、特製の抽出機で丁寧に抽出されたアイスコーヒーは、まさに看板メニューと言えるだろう。

「ゆっくりと混ざり合う美しさ」を大切にしているため、植物性のホイップクリームではなく、あえて動物性の生クリームを使用する。これにより、混ざりにくいクリームが珈琲の味わいに深みを与え、一口ごとに異なる味わいが広がる。グラスの中で時間をかけて完成していくその味は、デザート感覚で楽しめるためか、「普段珈琲を飲めないけれど、ここのなら飲める」と言う人も少なくない。

見た目も美しい「モカ・アイスド」。特徴である動物性生クリームがクラッシュ氷を包み溶けにくくなることで、珈琲本来の味を最後まで楽しめる

 この店を切り盛りするのは、店長の佐藤慶介さん。蒲田店で3年、銀座に移ってからは7年目になる。彼の目指すところは、「100人が100人美味しいと言う珈琲」。佐藤さんは、「カップが空になっていたら、それは美味しかった証拠。美味しいものは残さないものだから」と語る。その言葉を聞いて、底の見えた誇らしげなカップを思い浮かべて、「なるほど」と膝を打つ。

あたたかい珈琲はサイフォンで注文ごとに一杯一杯淹れられる。細かく挽いた粉が抽出されぬよう、独自の特殊なフィルターを使用
まずはブラックで一口。次にコーヒーシュガーを加えて香りを楽しみ、最後にミルクを注いで自分好みに仕上げる。写真は「和蘭豆ブレンド」

 また、和蘭豆には、自慢の珈琲をより引き立てるサイドメニューも豊富だ。モカシフォンケーキに添えられた自家製ラムレーズンなど、派手さはなくとも、記憶に残る味わい。

お店で定番のモカソース。コーヒーゼリー、ラムレーズンをトッピングした「モカシフォン」

 さらに、この店のもう一つの顔は、その“昭和の喫茶店”らしさ。銀座店は令和の現在でも喫煙可能で、葉巻やパイプを楽しむ人々も集う。今では少なくなった珈琲と煙草がセットの空間として、喫煙者にとってはかけがえのない場所となっている。実際、40年以上通い続けている人もおり、常連客の好みに合わせて挽き方や蒸らし方を変えたり、リクエストに応じて「ハワイコナEXファンシー」などがメニューに加わるなど、寄り添うことで感謝の気持ちを表しているのではないだろうか。

昔ながらの紙のコーヒーチケット。常連客の多さがわかる
コナコーヒーの最高等級である「ハワイコナEXファンシー」は豊かな酸味とキレのある味わいが特徴

 内装は創業当時のままで、照明一つにもこだわりがあり、控えめな光の中で浮かび上がるような珈琲の艶やかさが美しい。時代が移り変わり、街の景色が変わっても、その空気感は変わらない。昭和、平成、令和と続く時間の中で、人々の思い出とともに、この店の味わいも熟成され続けている。

照明、椅子など、座る場所によってさまざまな景色が楽しめる

 かつて、祖父に「秘密の場所だよ」と言われ、連れられてこの店に通っていた少年は、祖父が亡くなった後もしばらく祖母と通い続けていたというエピソードも。注文していたのはいつも、ピザトーストとオレンジジュース。時が経ち、大人になった彼が再びこの店を訪れた時、どんな思い出がよみがえるのだろうか。プロポーズの場面で訪れたカップルもいれば、「ここに来れば誰かがいるから」と仲間に会いに来る人もいる。和蘭豆は、単に珈琲を飲む場所だけではなく、人と人とがつながる場所でもある。

濃いめに抽出したアイスコーヒーにミルクをたっぷり加えた「アイスカフェ・オ・レ」。「モカ・アイスド」とはまた違った美味しさが堪能できる
添えられたオレンジ、シナモンを効かせた珈琲が特徴の「アイス・カプチーノ」。はちみつを入れるのがおすすめだそう

「いろいろな経験をさせてもらっています。珈琲に正解はないからこそ、飽きも来ないし面白い」という佐藤さんの言葉が、この店の魅力を物語っている。今日も、濃くてやさしく、どこか懐かしい和蘭豆の一杯が、誰かの喫茶時間を静かに癒しているのだ。