撮影:平石順一
店内には鮮やかなカップアンドソーサーが飾られている
丁寧に淹れられた珈琲に合う絶品のメニュー
学芸大学駅東口。八百屋の脇にある細い階段を上がった先に、木村直嗣さんと良江さん夫妻が営む喫茶店「かふぇ り どぅ あんぐいゆ」はある。「もともとサラリーマンになるつもりはなかった」と語る直嗣さんは、六本木の「カファブンナ」や原宿の「カフェ アンセーニュ ダングル」などで経験を重ねるなかで、「コクテール堂」の珈琲と出会った。これまで飲んできたものとはまったく違う衝撃を受けたというその味わいが、自分の店を持ちたいという大きなきっかけになったという。
カウンター、ボックス席とテーブル席があり、違う景色を楽しめる
1979年、西口駅前のビルオーナーから「2階に珈琲屋を入れたい」と声をかけられ、あんぐいゆの歴史は始まった。フランス語の「lit d’anguille(リ・ドゥ・アングイユ)」に由来する店名は、直訳すると「うなぎの寝床」。細長い空間の佇まいを表したその名の通り、西口時代の店は控えめな照明が心地よい、隠れ家のような場所だった。多くの人に愛されながらも、諸事情により40年以上続けたその地を離れることになる。その後、駒沢への移転を経て約4年。「やはり馴染みのある学芸大学に戻りたい」という強い思いを抱くなか、かつてレストランだった現在の場所と出会い、2024年3月に再オープンを果たした。かつてを知る人々にとっては、まさに名店の帰還だっただろう。
木村直嗣さん。ストレートコーヒーは注文を受けてから豆を挽く
分厚いネルに少しずつお湯が注がれ、泡立つ様子を眺める
直嗣さんは「珈琲にまつわることをしている時間がいちばん楽しい」と話す。ブレンドにはコクテール堂の「五番町」と「楡」を使用、ストレートコーヒーは生豆を2年以上熟成させてから手網で焙煎する。お湯を注いだ瞬間に膨らむ泡をじっと見つめる真剣な眼差しに、こちらまでつい息を潜めてしまう。静かな店内には湯気と香りだけが漂い、白昼夢の中にいるような感覚に包まれる。丁寧に淹れられた一杯は、さらに表面の泡を掬い取ってアクを除く。これは泡が急激に空気に触れるとエグみが出るための工程で、一見地味だが、味の奥行きを支える欠かせないのだそう。「喫茶店の仕事は大変さが8割」と笑う直嗣さん。閉店後も仕込みや焙煎が続き、店を出るのは深夜1時を回ることも少なくない。
マイルドな「五番町」。ネルドリップならでは、豆の旨みだけを抽出した、雑味のない味
上がサワークリーム、下がチーズの2層になった「ベークドチーズケーキ」とブレンドのセット。おすすめは苦味のある「楡」
そんなこだわりの珈琲とともに味わいたいのが、良江さん手作りの冬季限定メニュー「焼きリンゴ」だ。当初はアップルパイを考えていたが、他店と同じになってしまうため変更したという。りんご本来の香りと甘みを引き出すため、生のまま30分かけてじっくり焼き上げ、熱々のシナモンバターとともに供される贅沢な一皿である。
りんごの熱で溶けたバニラアイスとの相性も抜群の「焼きリンゴ」
「クロックムッシュ」は写真の「ハムチーズ」と「ハムキュウリ」の2種類。サラダとフルーツもついた贅沢な一品
また、現在の店舗になってから、朝の時間を支える新たな存在も加わった。直嗣さんと良江さんの旧知の友人、波多野三奈さんだ。「夜にバーをやったら?」という誘いに対し、「朝から開いていたらいいのに」と感じたことから、朝8時から12時まで店に立ち、モーニングを担当している。その時間帯限定のメニューとして登場するチャイは、「珈琲を飲めない人のために」と考えられたもの。スパイスの香りと、甘く煮出した紅茶とミルクのやさしさが、一日の始まりを特別なものにしてくれる。
濃厚なミルクに香り高い茶葉とスパイスが感じられる「チャイ」
ネルドリップで淹れられたアイスコーヒー「カフェグラッセ」が陶器のカップで供されるのも乙
ある人から聞いた「喫茶店は文化だ」という言葉を良江さんは大切にしている。海外のサロンのように、さまざまな人が集い、時間を忘れて過ごせる場所でありたい……。そんな思いで日々店に立つ。直嗣さんの手から生まれる珈琲は、単なる飲み物ではなく、時間や人生を味わうためのひとときそのものだ。ここでは、人と人が珈琲やトーストを介して自然に繋がり、日常に静かな喜びをもたらす文化が息づいている。あんぐいゆは二人の、そして今は三人の情熱と積み重ねによって育まれた、多くの人にとっての心の隠れ家なのだ。
左から、波多野三奈さん、木村直嗣さん、良江さん


