2014年ソチオリンピックで演技をするキャシー・リード、クリス・リード。写真=アフロ

なぜ日本では知られていないのか?

 フィギュアスケート競技のひとつ、アイスダンスが全日本選手権で実施されたのは、1957年の第25回大会である。金子恵以子、竹内己喜男が優勝を飾り、以降、8連覇を達成。1962年にチェコ・プラハで開催された世界選手権に日本初のアイスダンス代表として出場した。

 1976年のインスブルックオリンピックでアイスダンスが採用されると、1984年のサラエボオリンピックに佐藤紀子、高橋忠之が出場、17位の結果を残している。

 ただ、今日に至るまで、苦戦を強いられた感があるのは否めない。

 全日本選手権の成績を振り返れば、ひと組のみしか出場していないときは珍しくないことが分かる。最近では2007年大会がそうだし、直近の2019年大会も4組でしかない。選手層がどれだけ薄いかが実感できる(ちなみに昨年行われたロシア選手権のアイスダンス は、14組が出場してる)。

 なぜ、少ないのか。1つには練習する環境を確保する難しさだ。

 そもそも日本は、リンクの数が少ないため、フィギュアスケート選手全般に、練習する環境に恵まれていない。そのうえ、これはもう1つのカップルの種目であるペアも共通するが、練習に使用するスペースが広い。リンクを貸し切るにも費用がかかるし、練習する場所を得るのが簡単ではない。

 費用という点では、アイスダンスは社交ダンスなどのレッスンに取り組むなど出費がかさむ。それも障壁の1つだ。

 選手層が薄いため、指導者も限られているのも普及を妨げる要因だし、男性スケーターが女性より少ないことも大きいだろう。その中にあって、どうしてもシングルをやりたい選手が多いし、また、体格的に女性を持ち上げられる大柄な選手も限られる。

 注目度が高くなければスポンサーなど支援を得るのも容易ではない。結果、選手層が限られ、国際大会で好成績を残すのも難しいという悪循環があった。

 

日本のアイスダンスを牽引してきた功労者

 その中で奮闘してきた選手たちもいる。その時代その時代で、懸命に取り組んできた選手たちは、アイスダンスをつないできた。

 とりわけ、第一線で牽引してきた功労者と言えるのは、キャシー・リード、クリス・リードだ。

 母が日本人である姉のキャシーと弟のクリスはアメリカに生まれ育ち、2人で組んで競技を始めた。

 2006-2007シーズンから日本に移ると、瞬く間に頭角を現した。翌シーズンから8年連続で世界選手権に出場し、オリンピックにも2010年のバンクーバー、2014年のソチと2度出場を果たした。

 2006年のトリノまで、計4大会しか日本のアイスダンスは出場権を得られなかったし、複数回出場した選手はいない。その事実からしても、キャシー、クリスが押し上げた功績は大きい。

 2015年4月、キャシーは引退を発表した。そののち、クリスは村元哉中と組んで、2018年の平昌オリンピックに出場している。

 オリンピックでは、ソチから団体戦が採用された。男女シングル、ペア、アイスダンスの選手たちにより行われるものだ。2人は、日本がオリンピックの団体戦で競うためにも、欠かせない存在だったし、それも含め、日本のアイスダンスの柱であった。

 引退したあとのキャシーにインタビューした際、こう語っていた。

「アイスダンスをもっと日本に広めたいという気持ちで頑張ってきました。今も変わりありません」

 指導者となり、また、振り付けでも活躍している今日も、アイスダンスへの思いは消えていない。

 昨年末に引退を発表したクリスもまた、姉のキャシー同様、「日本にもっとアイスダンスを」という思いを秘めていた。

 

2020年3月、クリス・リード急逝

 その夢に一歩近づいていた。今年1月にオープンした新しいスケートリンク「木下グループ・関空アイスアリーナ」で、キャシーとともに木下アカデミーアイスダンススクールを開設したのだ。

 本格的に育成に力を注ごうとしていた。だから拠点としていたアメリカ・デトロイトから日本に移る予定だった。

 その矢先のことだった。

 日本時間で3月15日、クリスは急逝した。心臓突然死と発表された。30歳だった。

 長年にわたりアイスダンスのために踏ん張ってきたことを誰もが知っていた。穏やかで優しい人柄も愛されていた。日本はもちろんのこと、海外のスケート関係者たちから追悼が寄せられた。

 クリスの夢は道半ばに終わった。ただ、その志は消えることはない。キャシーの思いも消えることはない。

 彼らは歴史を、たしかに前へ進めた。キャシーはさらに進み続けるだろう。そして彼らの思いを継ぐ人々もきっと出てくる。

 次回は日本のアイスダンスを変える可能性を秘めた選手を紹介する