今回は、紫式部の後半生を取り上げたい。

文=鷹橋 忍 

石山寺の紫式部像 写真=ogurisu/イメージマート

夫の急死

 長徳4年(998)に、紫式部は佐々木蔵之介が演じる藤原宣孝と結婚した。

 長保元年(999)、もしくは長保2年(1000)には、賢子という女子を授かったが、長保3年(1001)4月25日、宣孝は急死してしまう。

 紫式部の生年は諸説あるが、ここでは仮に天延元年(973)年説で年齢を算出すると、紫式部が数えで29歳の時のことである。

 紫式部が自撰したとされる和歌集『紫式部集』には、

世のはかなきことを嘆くころ、陸奥に名ある所どころに書いたる絵を見て塩釜

(この世のはかなさを嘆いていた頃、陸奥の名所がいくつも描いてある絵を見て 塩釜)

見し人の けぶりとなりし 夕べより 名ぞむつましき 塩釜の浦

(連れ添ってきた夫・宣孝が、荼毘の煙となったその夕べから、塩の産地で塩焼きの煙が立ち上る塩釜の浦に、なぜか親しさを覚えてしまう)

 など、夫の死を悼む歌が収められている。

 

早くも求婚者が現われる

 宣孝が亡くなる少し前の長保3年3月頃に、岸谷五朗が演じる父・藤原為時が、越前守の任期を終え、帰京している。紫式部は実家で、娘の賢子、再び散位となった為時の三人を中心とする生活を送るようになった。

 宣孝の卒去から少し経つと、紫式部は西国の受領を務めていたと推定される男性から(今井源衛『人物叢書 紫式部』)、求婚された。

 求婚者を、宣孝の子・藤原隆光とする説もあるという(倉本一宏『紫式部と藤原道長』)。

『紫式部集』には、求婚者との歌のやりとりが記されているが、紫式部は求婚に応じなかったようだ。

 紫式部の宮仕えの記録『紫式部日記』には、このころの生活を回想した部分が存在する。

 それによれば、紫式部は、様々なことを紛らわすために、友達同士で物語を作っては見せ合ったり、手紙で批評し合ったりして、過ごすこともあったという。

 紫式部が『源氏物語』の執筆をはじめた時期は諸説あるが、夫・宣孝の死を契機に、書き始めたともいわれる。