この1月、23歳で芥川賞を受賞した鈴木結生さんの『ゲーテはすべてを言った』は近年稀な“機嫌のいい小説”に見える。人名の隠喩、オノマトペ遊び、ゲーテらしい名言やゲーテっぽくない警句など、至る所に読者の脇腹をくすぐる仕掛けが施されている。ゲーテその人自身は詩人や小説家にして小国ワイマールの政治家でもあった(1749~1832年)。ダブルワークしたゲーテにちなみ、正業と副業の間で右往左往した偉人たちの姿を伝える1冊もご紹介。
選・文=温水ゆかり
写真=shutterstock

第172回芥川龍之介賞 受賞 若き才能が描き出すアカデミック冒険譚

著者:鈴木 結生
出版社:朝日新聞出版
発売日:2025年1月15日
価格:1,760円(税込)
【概要】
高名なゲーテ学者、博把統一は、一家団欒のディナーで、彼の知らないゲーテの名言と出会う。ティー・バッグのタグに書かれたその言葉を求めて、膨大な原典を読み漁り、長年の研究生活の記憶を辿るが……。
ひとつの言葉を巡る統一の旅は、創作とは何か、学問とは何か、という深遠な問いを投げかけながら、読者を思いがけない明るみへ誘う。若き才能が描き出す、アカデミック冒険譚!
ティー・バッグの名言から始まる「機嫌のいい小説」
物語は、紅茶のティー・バッグのタグに記された、こんな名言から始まる。
「Love does not confuse everything,but mixes.――Goethe」
日本におけるゲーテ研究の第一人者で、今年63歳になる博把統一(ひろば・とういち)。銀婚式を迎えた統一と義子(あきこ)夫妻は、一人娘である徳歌(のりか)の招待で、郊外のイタリア料理店で美味しいディナーを楽しむ。
カプレーゼやツナとわさび菜のサラダなど、前菜は銘々が好きな物を皿に取るビュフェ形式だったから、ケーキや飲み物などのデザートも、きっと同じスタイルだったのだろう。徳歌は何十種類も並ぶ紅茶の棚からアールグレイを取ってくる。
三人がそれぞれの袋を開けると、徳歌のティー・バッグのタグには『失楽園』からの長い文章とミルトンの名が、母のそれには短めのフレーズとプラトンの名があり、どうやら古今東西の愛の名言を集めたもののようだった。
「パパのは?」と聞かれ、統一がドイツ語訛りの英語で読み上げてタグを示すと、女性陣はゲーテの名に驚き、“さすがパパ、やっぱゲーテと赤い糸で結ばれているんだ”と、はやしたてる。統一は照れながらも、偶然を必然のようにも感じて満更でもない。
英国に留学し、きれいなクイーンズ(留学当時)・イングリッシュを話す徳歌は、英語になったゲーテの「Love does not confuse everything,but mixes.」を、『愛はすべてを混乱させることなく、混ぜ合わせる』。そんな感じかしら?」と訳してみせる。
プラトンもミルトンも、スープに浮かぶクルトンほどには関心のない母は「へぇ、いい言葉ねぇ」と感心し、統一は「多分、『西東詩集』だろうとは思うんだがね」と出典をほのめかしてゲーテ学者の威厳を保ち、徳歌は「英語の生硬さは翻訳だろうから仕方ないにしても……」と、翻訳された英文に軽いジャブを加えて、その夜の宴は終わった。
ゴッホが南仏アルル時代に描いた「夜のカフェテラス」という絵をご存じだろうか。地中海ブルーの夜空とカフェを包む黄色の灯りが、補色関係の織りなす小宇宙を作り、カフェでくつろぐ人々の気分を、星々が汲み上げたかのような華やぎがある。
車で行く山中のイタリア料理店、仄かな照明が店内を照らし、平日とあって客の入りはまばらだが、物寂しさのようなものはない。そこで交わされる気のおけない親子の会話。冒頭のこのシーンを読みながらふと思ったのは、「夜のカフェテラス」にも通じる“明るい幸福感”だった。
「○○には二種類ある」という分類ゲームを持ち出せば、小説には「機嫌のいい小説」と「不機嫌な小説」の二種類があるように思う。格差が生まれ、同じクラスターの中にも互いに顔を背け合う分断がある現代を描こうとすれば、物語は必然的に後者に傾く。
その意味で本書は、昨今稀な「機嫌のいい小説」かもしれない。そんな予感を抱く。そもそも〈ひろば・とういち〉という名からして、広場、東西ドイツ統一などを連想させる“くすぐり”に満ちているではないですか。
タレント学者のゲーテ第一人者による「原典探しの旅」
翌日、統一は英語になったゲーテのあの名言をドイツ語に直してみる。口に出してみると、あまりゲーテらしく聞こえないことに自分でも驚く。娘の徳歌が和訳したものも、訳し直してみる。こうなった。
――「愛はすべてを混淆(こんこう)せず、渾然となす」――カジュアルウエアが一瞬にして晩餐会のタキシードに変身したかのような品格アップ。翻訳マジック、ここにあり。統一の本腰を入れた原典探しの旅が始まる。
まず義父が訳した『西東詩集』にあたり(編註/西東とは東洋のこと)、編集委員の末席に加わり面倒なことを一手に引き受けた日本語版の各巻に当たり、その働きぶりを認められて栄誉を譲られた我が訳の『ファウスト』もあらためて目を通してみる。
近いものはあるが、ズバリではない。英語版に当たろうか、いやミュンヘン版とフランクフルト版を見ていく方が早いかもしれない、などと思案する。その間統一の頭には、これがゲーテの言葉ではないかもしれないという疑念は、いっさい浮かばなかった。
1999年に出した統一の初の単著『ゲーテの夢 ジャムか? サラダか?』に、なぜ彼に迷いがなかったのかの理由を見ることができる。統一が『ゲーテの夢』のキーワードに使ったのはゲーテの二つの警句だった。
一つは「世界は粥やジャムでできているのではない。固い食物もかまねばならない」。もう一つは「世界はいわばアンチビ・サラダ。何もかも一緒くたに平らげねばならない」。後者はどうも眉唾。ドイツ人がアンチョビに親しんでいたなんて、聞いたことがない。鈴木結生さんの自家製か?
多様性と統一性を論じたその本の中で、統一は前者を「すべてが一緒くたに溶け合ったジャム的世界」、後者を「事物が個別の具体性を保ったまま一つの有機体をなしているサラダ的世界」とした。
その上で、ゲーテは「世界をサラダ的に理解し、かつ構成しなければならないと、と考えながらも、ジャム的世界の理想を神に委託していた」と主張したのだった。
この『ゲーテの夢』はポストモダンブームが下火になる中、平易に語られた世界理解の書として専門外の読者にも広く読まれる。出版の翌2000年、EUが「多様性の中の統一」というスローガンを打ち出したのも追い風になり、統一をタレント学者に押し上げる。付いたあだ名が「サラダおじさん」。
ブレグジットやウクライナ情勢で、このところ現実味を失ったかに見えるサラダジャム理論だが、もしゲーテが「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」と本当に言っていれば、これぞ統一が積み上げてきたゲーテ学の芯を射ぬく至言になる。
こだわりは野心の住み処か?
原典探しにこだわるのは、統一にとってあの言葉が、復権すべき世界理想の王冠のように思えたからだ(名言にちなんで、いまとっさに「こだわりは野心の住み処」と自家製格言を作ってみました。いかがでしょう?)。
統一は近著の『七人のゲーテ』が新書になったのをきっかけに、「眠られぬ夜のために」という30分✕4夜の番組に出演することにもなっていた。出版されるテクストの執筆にも時間を割かねばならない。
割かねばならない時間はまだある。マンネリな授業、無駄な会議、学生との面談。大学という容れ物と、その中に生息する大学教師や大学生のクローズドサークルを描いて、本書はなかなかリアル。
統一の愛すべき同僚で、文学から表象文化に転身した然紀典(しかり・のりふみ)の突出したキャラクターが、本書の特異点かもしれない。然は統一が原典を明記しない名言ブームというのも困ったものだと愚痴るのを聞き、名言を三つに分類してみせる。
1)要約型名言(覚えやすい)、2)伝承型名言(さまざまな人がこすって元ネタがわからなくなっている) 3)仮託型名言(その人物がいかにも言いそうだと創作されたもの)。
然は座談の名手ぶりを発揮して、こんな笑話も披露する。「うちの近所にある寺の門前に、『愛の反対は無関心――マザー・テレサ』って貼ってあって、笑ったなぁ」。「抹香臭さを打ち消そうとの魂胆だろうが」「これはエリ・ヴィゼールという人の言葉」と相変わらずの博識ぶり。
その然教授に突然、捏造疑惑が持ち上がる。維神光(いしん・ひかり)なる人物が告発した檄文によれば、然は他人の文章を自分の文章に溶かすことに長けているばかりか、架空の著作や人物を数多く捏造している、と。
「このような人物の書いたものがもう四十年間もアカデミックな世界で罷り通ってきたことに戦慄を覚える」と、維神は大学関係者のことも激しく糾弾していた。
統一は維神の檄文を読み、不謹慎ながら何度か笑ってしまう。ここまでの熱情を持って然の著作を分析していることが、かえって然の熱烈なファンであることを思わせたのだ。愛の反対が無関心なら、憎しみは愛と同じ仲間の鬼っ子なのかもしれない。
ゲーテ曰く『ベンツよりホンダ』問題は使い方が正しいかどうか
統一は結局、原典を突き止められないまま、「眠れぬ夜のために」の収録を迎える。第四夜の最終回を撮っていたとき、司会者やゲストとのやり取りの流れの中で、「愛はすべてを混淆せず、渾然となす」を、ゲーテの言として紹介する。
やってしまった……学者としてやってはいけないことをやってしまった。帰途のタクシーの中でずっと吐きそうになるのをこらえ、家に戻るとソファに倒れ込む統一。夫の様子に動転した義子の悲鳴に驚き、徳歌も自室から飛び出してくる。
さて、そんな悲惨な夜を経て物語はいよいよ大団円に向かう。冒頭で、機嫌のいい小説ではないかと書いたことを、思いだして頂きたい。予感通り、ウェルメイドの方向へあらゆるものが収束していく。
然紀典と維神光の関係は言うに及ばず、然に頼まれて卒論の面倒をみた紙屋綴喜という青年の素性、然が面白いよと言って渡してくれた驢馬田種人(ろばた・しゅじん)なる新人の小説、夜のジョギングと称し彼氏の元に通っているらしい娘の徳歌、妻の義子がテラリウム制作を通じて入れ込んでいるYouTuberのウェーバーさん。
原典を探して家族+1でドイツへ、ウェーバーさん宅を訪ね、ある文書を見せてもらう。次の日はゲーテ街道を辿ってゲーテが政府高官を務めていたワイマールへ。そこで統一が遊学中に仲良くしていた画学生ヨハンと再会する。
ヨハンは、たとえ自分が適当に言った言葉でも「ゲーテ曰く」と付け加えておけばそれらしく聞こえると、魔法のふりかけを授けてくれた下宿の隣人だった。なぜこのふりかけが有効なのかと言えば、「ゲーテはすべてを言ったから」。
ヨハンは言った。なあに、ドイツ人だって、ゲーテがどんな時代に生きて何を言ったかなんて、知りやしない。ほら、統一も試しに何か言ってみろよ。統一は限られた語彙の中から苦し紛れに言ってみる。「ゲーテ曰く『ベンツよりホンダ』」。
そのとたん、ヨハンは笑いの暴風になぎ倒され、でんぐり返ってしまった。以来、「ゲーテ曰く」が二人の決めジョークになる。例えば、こんな風だ。
統一がドイツ語文献の読解につまずいていると、ヨハンが友の苦境を励ます。「大丈夫。ゲーテも言ってるよ。『神はスペイン語を、女はイタリア語を、男はフランス語を、馬はドイツ語を話す』。馬にできることが君にできないことはない」。
ベルリンの壁が崩壊した時(1989年11月)は、「ゲーテは言った、『万歳、万歳、万歳!』」と、声を合わせてヨハンと喜び合った。同時代で同じような興奮を(日本で)味わった者としては、“ン? そこ、ゲーテいる?”と茶々を入れたくなる。
が、歴史の構造変化の瞬間に立ち合うことは祝祭だ。二人は歓喜の仲間を増やしたくて、18~19世紀のゲーテを20世紀に招来せずにはいられなかったのだろう。ちなみにゲーテの代表作『ファウスト』のファウストは、幸福な、あるいは祝福されたという意味のラテン語からきている。
まだ何者でもなく、でも、もういいかげん何者かにならなければ後がないと分かっている青年達のおふざけには、去りゆく青春の残照がある。私の好きなシーンだ。
好きなシーンと言えば、統一が原典探しにいそしんでいた頃、クリスマスの夜に見た夢も魔術的で妖しい。『ゲーテの夢』をポケットに入れて街に出た中学生くらいの統一は、煌々とした灯りが外にも漏れる屋敷に招き入れられ、「先生」と呼ばれる人に『ゲーテの夢』を献本する。
先生は語る。「いろんな状態がいつも繰り返されている。どの民族だって」「生き、愛し、感じている。あらゆることは既に言われていて、われわれはせいぜい、それを別の形式や表現で繰り返すだけだ」
「詩を実生活から取ってこようと、書物からとってこようと、そんなことはどうでもよい」「使い方が正しいかどうかということだけが問題なのだ!」
先生は、芸術の血統・伝統・模倣・引用を肯定し、今の若者に欠けているには「愛だ」、「愛はすべてを混淆せず、渾然となすのだ」と、その夢の中で高らかに語った。
夢の中で「ゲーテ先生」が言ったように、すべてはすでに言われている。ゲーテは、自分を文学の伝統という巨大樹に自分を接ぎ木することで、すべてを言えるという可能性に賭けた。
それは統一も同じだった、ゲーテに自分を接ぎ木することで、統一もまた文学という巨大樹の樹液を吸ってきたのだ。テレビの収録で、統一を学者として、あってはならない領域に押し出したのは、そんな確信だった。
名言の原典探しの旅は、伝統に繋がる無記名性こそ文学的伝統を写すものであるという思いがけない視座に着地する。テレビ番組収録時は学者の矩を超えた罪悪感で息も絶え絶えだった統一だが、ドイツからの帰国後、家族“四人”で放送を見る時は晴れやかだ。
「あなたのよく知る世界を書きなさい」を実践する好著
鈴木結生さんの父上は牧師さん。幼い頃から聖書を読む環境で育った。この原稿を書く上で、聖書が西洋文学に与えた影響を十分に理解できていない点はお詫びしたい。作家を目指す人々に贈られる「あなたのよく知る世界を書きなさい」。私にとっては、その言葉を実践したような好著だった。
本書は芥川賞選考会の1回目の投票で、トップの票を集めたと聞く。作家と大学教師という二足のわらじをはく委員などは、大学というクローズドサークルの中で起こる出来事をニヤニヤしながら読んだに違いない。
鈴木さんは本書の中で、ウキウキを「浮き憂き」、モジモジを「文字文字」と書くようなオノマトペ遊びもする。鈴木さんならニヤニヤをどう書くだろうか。選考という大役の荷下ろしをする「荷や荷や」?(お粗末……。失礼しました)。
若き芥川賞作家の受賞後第一作は、この3月に文芸誌「小説トリッパー」に発表された。林芙美子賞の佳作になって作家デビューした「人にはどれほどの本がいるか」(雑誌掲載のみ)でトルストイを、本書ではゲーテをモチーフにしたように、第3作ではディケンズに光を当てる。19世紀近代小説の祖となった文豪三部作だ。
先だって行われた総選挙の結果が示すドイツの右傾化、トランプ米大統領の出現もあって軍拡推進に転じつつあるEUの意志。現実は、自由や多様性を重んじ、世界一開明的と言われたワイマール憲法の思想的土台となったゲーテの世界観とは違う方向に進んでいるが、統一も言ったように、だからこそ再接種すべき緊急度は増しているとも言える。
本書の表紙は、ゲーテがニュートンの光学的色彩論に異を唱え、心血を注いだ『色彩論』(色は光と闇の相互作用で生まれる)の手稿データをデザイン化したもの。統一ファミリーの原典探しの旅と大団円の小宇宙を楽しまれたい。