フィレンツェからローマに移ったラファエロは、ヴァチカン宮殿を舞台にミケランジェロを超える大事業を成し遂げます。

文=田中久美子 取材協力=春燈社(小西眞由美)

ヴァチカン宮殿「署名の間」

ローマでの飛躍と栄光

 1508年、25歳のラファエロは教皇ユリウス2世が支配するローマに移り住みます。ラファエロより少し前に、ミケランジェロが教皇の命でシスティーナ礼拝堂の天井画の制作を始めていましたが、若きラファエロの才能を評価した教皇は、「スタンツェ(諸室)」と呼ばれる教皇の居室の装飾事業の責任者に抜擢します。

ヴァチカン宮殿「署名の間」天井画 1501-11年 フレスコ

 これまではフィレンツェの大商人や貴族など、個人からの依頼が多かったせいか、ラファエロには大画面の作品はありませんでした。聖母子像が多い理由もそのせいかもしれません。ローマに来てようやく、大壁画や天井画を任せられます。

ヴァチカン宮殿「署名の間」天井画《アダムとエヴァ》1508-09年 フレスコ 120×105cm

「ラファエロのスタンツェ」と呼ばれる部屋は4つあり、はじめに手掛けたのが教皇の書斎兼私的な図書室の「署名の間」でした。完成後に証書に署名する場となったことから、この名で呼ばれます。すでに画家ソドマが着手していた天井画に途中から弟子とともに参加し、《アダムとエヴァ》はラファエロ自身が描いたとされています。

レオナルドのスケッチに基づく作品 レオナルド派《レダと白鳥》1505年以降 油彩・板 112×86cm ローマ、ボルゲーゼ美術館

 ここに描かれているエヴァの下半身は、レオナルドのスケッチ《レダと白鳥》からとったものだとの指摘もあります。ヴァチカンの絵画ではありませんが、大銀行家のために描いた《ガラテアの勝利》(1511年)のガラテアにもその引用が見えます。

《ガラテアの勝利》1511年 フレスコ 295×225cm ローマ、ヴィッラ・ファルネジーナ

 天井画に続いて半円形をした四方の壁のひとつにラファエロは、《聖体の論議》を描きました。これに満足した教皇庁は《アテネの学堂》《パルナッソス》《正義の壁》という3つの壁もラファエロに任せます。

ヴァチカン宮殿「署名の間」《聖体の論議》1509年 フレスコ

《聖体の論議》は場面を上下に二分し、地上では聖体をいただく聖杯を、天上では三位一体を、それぞれ取り囲む人々とともに表現するという、大胆な構図です。

ヴァチカン宮殿「署名の間」《アテネの学堂》1509-10年 フレスコ

 次に手がけたのが、背景の大きなアーチ型に、中央一点消失遠近法とシンメトリーという完璧な空間が広がっている《アテネの学堂》でした。激しく体をよじっている人物もいることから、これらは明らかにミケランジェロのシスティーナ礼拝堂天井画の影響を受けています。

 中央のふたりを中心にその他の人物にはそれぞれ動きがあります。しかし、人物の高さは揃えられ、層が重ねられたような空間の中で、その層をつなぐかのように階段に人物を配したりしながら、整然とした空間になっているところがこの作品の素晴らしいところです。

 また、中心にいるふたりのうちの左のプラトン(右はアリストテレス)はレオナルド、左の前に座って頬杖をついているヘラクレイトスはミケランジェロをモデルにしているなど、尊敬している人物を登場させ、さらに右側に視線を見るものに向けた自画像も描き込んでいるという楽しい構成です。

ヴァチカン宮殿「署名の間」《パルナッソス》1510-11年 フレスコ

 アポロンの神々が住むパルナッソス山にアポロンを中心に古代から当時に至る詩人たちが集う風景の《パルナッソス》も、人物描写に《アテネの学堂》同様、ミケランジェロの影響が見られます。

 最後に手がけた《正義の壁》に描いたのは、左から「剛毅」「賢明」「節制」を擬人化した3人の女性と、天使たちです。

ヴァチカン宮殿「署名の間」《正義の壁》1511年 フレスコ

「署名の間」は神学、哲学、詩学、法学(正義)という概念を、壁画と、天井に描かれた場面や擬人像と対応させ、図式化した構成になっています。壁画《聖体の論議》と天井画《原罪》は神学、壁画《アテネの学堂》と天井画《天体の起動》は哲学、壁画《パルナッソス》と天井画《アポロンとマルシュアス》は詩学、壁画《正義の壁》と天井画《ソロモンの審判》は法学(正義)という対応関係です。

 これはキリスト教と古代の新プラトン主義が結びつき、さらにキリスト教を超えたその時代の思想を部屋全体で体現しているという、壮大な構成です。ルネサンスの理想としている空間で、「署名の間」はまさにルネサンスの最高傑作と呼べるもので、当時も大評判を呼びました。また、「署名の間」が図書室として使われていたことから、神学、哲学、詩学、法学という書物の分類を用いたともいわれています。