昭和2年(1927)、自殺直前の芥川龍之介は、谷崎潤一郎と小説の筋をめぐって論争を交わしました。二人の天才を比べることで芥川の苦悩の真実が見えてきます。
文=山口 謠司 取材協力=春燈社(小西眞由美)
江戸っ子で神童だった芥川と谷崎
芥川龍之介と谷崎潤一郎には、ともに江戸っ子で神童とよばれるほど頭が良かったという共通点があります。
明治19年(1886)、人形町に生また谷崎潤一郎は、芥川より6歳年上でした。祖父が手広く事業をしていた商家でしたが、父の代に事業が苦しくなり、生活に困窮します。しかし、幼い頃から神童といわれた谷崎は周囲の援助で勉学を続けることができ、府立一中ではその優秀さで飛び級をして、東京帝国大学国文科に入学しました。
はたして、小山内薫や和辻哲郎らと第二次『新思潮』を創刊、谷崎は『刺青』など、毎月のように斬新な小説を掲載します。
そしてもうひとつ、二人には大きな共通点があります。
谷崎は、大学2年の時、学費の未払いから帝大を退学になりますが、この年、独自の文体で、独特な世界を描いて著名であった永井荷風が谷崎の作品を激賞したのでした。
この時、谷崎は24歳。
芥川の『鼻』が、漱石に賞賛された年齢も24歳。
年代こそ違いますが、近代日本文学の最先端を切り拓いて行っていた二人の作家が、24歳で新境地に立つ二人の若い小説家の卵を高く評価したのです。
さて、24歳で生涯の師に出会った二人は、それぞれの道で、文学における「美」とは何か、を追求しはじめます。
しかし、それぞれの道を進むことによって、二人の間には、大きな深い溝ができていきます。
日本文学史では、荷風と谷崎は、「耽美派」の作家と呼ばれます。
美的感覚の鋭い谷崎は、その文章はもちろん、文章の長さ、漢字、ひらがな、カタカナの使い分けや、振り仮名の振り方といった組版の美しさにもこだわりました。自分の文章を客観的に見るために、初めに英語で書き、それを後から日本語に直したというのですから驚きます。
芥川も1日に1800ページくらいの英語、フランス語、ドイツ語で書かれた洋書を読み、どこに何が書いてあったか覚えていました。二人とも天才なのですが、谷崎が一度英語でアウトプットして客観的に見たのに対して、芥川はどんどん吸収して、うまく吐き出すことができなくなってしまうのです。
こう言ってよければ、芥川は、自分の文章を、客観的に見ることができなくなってしまうのです。
また、芥川にはファンがたくさんいました。
ファンの期待に応えるためにと思えば思うほど、芥川は自分の首を絞めてしまうことになるのです。
実際、芥川は、自分のために書くというより、人に誉めてもらうために、ネタを探して書くような書き方をしていたのです。
前回紹介した、書きたいものがあるから書くのではなく、書かなければならないから書く、とはこういうことでもありました。
余談ですが、谷崎が夢中になって、のちに妻とした松子さんは、もともと芥川のファンでした。芥川が松子さんとの会食に谷崎を呼んだことが、二人の馴れ初めです。松子さんに夢中になった谷崎は700通くらいラブレターを出し、大正12年(1923)、関東大震災を機に松子さんのいる関西へ移り、『痴人の愛』『春琴抄』などの名作を発表したのち、昭和10年(1935)に、念願叶って谷崎は松子さんと結婚するのです。