「美」にたどり着けなかった芥川

 谷崎は、松子さんのいる関西に行くことによって女性の美や、着物など日本の伝統文化の美、そして『陰翳礼讃』に書かれているような影の部分の美しさを追求し、「美」の表の世界と裏の世界にたどり着きました。

 しかし、芥川は「美」を探究しながら、そこになかなかたどり着けませんでした。

 大正7年(1918年)、芥川が26歳の時に書いた『地獄変』という小説があります。

『地獄変』は出世作『鼻』が『今昔物語』を脚色した小説であるように、芥川のオリジナルではなく、鎌倉時代に編纂された『宇治拾遺物語』から材をとった物語です。

 あらすじを紹介しましょう。

 平安時代の絵師・良秀は「地獄絵図」を完成させるために弟子に苦しみを与え、その姿を描いていました。さらに仕えている大殿に人が乗っている御車に火をかけてくれと頼みます。大殿はその頼みを聞き、美しい女を乗せて火を放つと約束します。ところがその御車の中には良秀が溺愛する娘が入れられていました。苦しみもがいて死んでいく娘を見て良秀はまさに地獄そのものの絵を完成させ、自分もその翌日、首をくくって死んでしまうのでした。

 その火の柱を前にして、凝り固まつたやうに立つてゐる良秀は、——何と云ふ不思議な事でございませう。あのさつきまで地獄の責苦(せめく)に悩んでゐたやうな良秀は、今は云ひやうのない輝きを、さながら恍惚とした法悦の輝きを、皺だらけな満面に浮べながら、大殿様の御前も忘れたのか、両腕をしつかり胸に組んで、佇(たゝず)んでゐるではございませんか。それがどうもあの男の眼の中には、娘の悶え死ぬ有様が映つてゐないやうなのでございます。唯美しい火焔の色と、その中に苦しむ女人の姿とが、限りなく心を悦ばせる――さう云ふ景色に見えました。

 しかも不思議なのは、何もあの男が一人娘の断末魔を嬉しさうに眺めてゐた、そればかりではございません。その時の良秀には、何故か人間とは思はれない、夢に見る獅子王の怒りに似た、怪しげな厳(おごそか)さがございました。

『芥川龍之介全集 第一巻』所収『地獄変』より(岩波書店)

 この小説で芥川は、地獄の中に「美」を求めて行こうとしています。金閣寺の美に憑りつかれた学僧が金閣寺に火を放つという、三島由紀夫の『金閣寺』にも通じる「美」だと思います。

 さて、昭和2年(1927)、芥川の晩年です。

 芥川は、小説に対する「物語の面白さ」を主張する谷崎を、雑誌『改造』で徹底的に非難します。これが晩年の芥川の文学論「文芸的な、余りに文芸的な」です。

 芥川は、「話の筋の面白さだけが作品そのものの芸術的価値を強めることはない」と谷崎を責めるのです。

 谷崎は「筋の面白さを除外するのは小説という形式がもつ特徴を捨ててしまうことである」と応えます。これが「小説の筋(プロット)論争」と呼ばれるものです。

 さらに芥川は、谷崎は筋を追いすぎる、文学は筋よりも「美」を求めていかないといけない、と訴えます。

 純粋すぎる芥川はギリギリまで自分を追い詰めながら「美」について思考します。しかしそのことが自分の道をどんどん閉ざし、谷崎が言ったように死に向かわざるを得なくなってしまったのではないでしょうか。

 この論争から間も無くの7月24日、35歳で命を断ちます。自分がどこに美を求めていいのかわからないまま、死んだのだと思います。しかし芥川が天才だったことは紛れもない事実です。その功績は「芥川賞」として、今もその名を残したのでした。