「日本紀の御局」とあだ名される

 出仕は、紫式部にとっては気の進まぬものであったようだが、出仕の翌年、あるいは翌々年の寛弘4年(1007)正月、弟の高杉真宙が演じる藤原惟規が六位蔵人に補されるなど、彼女の家族には良い影響を及ぼしたとされる。散位であった父・為時も寛弘6年(1009)3月に左少弁、寛弘6年(1009)3月に越後守に任じられた。

 紫式部は出仕当初、為時のかつての官職「式部丞」に依り、女房名は「藤式部」だったと推定されているが、『源氏物語』の人気が高まるにともない、紫の上を作者に結びつけて、紫式部と呼ばれるようになったともいわれる(諸説あり)。『源氏物語』は宮中でも好評を博したようである。

『紫式部日記』には、一条天皇が『源氏物語』を人に読ませ、「この作者はあの難解な『日本紀』(勅撰の六つの国史『日本書紀』、『続日本紀』、『日本後紀』、『続日本後紀』、『文徳実録』、『三代実録』の総称と思われる)を読んでいるに違いない。ずいぶんと漢才があるようだ」と賞賛したことが記されている。

 たが、一条天皇の言葉を聞いた朋輩の女房が、「学識をひどく鼻にかけている」と殿上人などに触れ回り、「日本紀の御局」とあだ名を付けられ、陰口を叩かれたという。

 当初、紫式部は宮廷での生活になかなか馴染めなかったようで、出仕早々に実家に退出してしまったこともあった。

 だが、やがて、中宮彰子の信任を得るようになり、寛弘5年(1008)夏頃から、懐妊した彰子に、唐の代表的詩人・白居易(字は楽天)の詩文集『白氏文集』の「楽府」を進講している。

 同年9月、彰子は待望の皇子、敦成親王(のちの後一条天皇)を出産するが、『紫式部日記』には、その誕生が細かく詳しく記録されている。