文=難波里奈 撮影=平石順一

「来てくれた人の期待を裏切らないように」

谷津駅を出て、飲食店などが並ぶ活気のある商店街を抜けて目当ての店へ向かう。突如現れる猫耳のような窓がついたその美しい外観は、誰もが一度は足を止めてしまうのではないだろうか。

「昔は近くに遊園地があったの。だからこの通りもお土産屋さんとかがたくさんあって賑わっていて」そう教えてくれたのは、「cafe螢明舎」の谷津店で働く下田理絵子さん。

建築は成田山新勝寺の宮大工が担当、外観内観とも、当時と変わっていない

 1982年、螢明舎の歴史は谷津店から始まり、その6年後には八幡店がオープンした。創業者は画家だった理絵子さんのご主人、今は亡き荘一郎さん。先述した遊園地は「谷津遊園」といって京成電鉄が直営で運営していたそうだが、東京ディズニーランドのオープン前年に閉じてしまった。ちょうどその頃、荘一郎さんの画家業だけではままならなくなり、副業として店を始めた。

 焙煎や抽出は、表参道の名店カフェ・レ・ジュ・グルニエから学び、ネルのハンドドリップで丁寧に落とす。理絵子さんいわく荘一郎さんは「もともと凝り性だった」ことから、「フレンチスタイルの珈琲屋」という奥深き道へ入り込んでいったそう。それだけにとどまらず、こだわりゆえに完成までに一年かかったという建物の設計や椅子のデザインも自分で手掛けるほど。

昼はクラシック、夜はシャンソンやジャズがかかる店内。客層は幅広く、常連の年配者から若い人で賑わっている
カップは洋食器が多かったものの、荘一郎さんが凝り出してからは大倉陶園のものが増えたとか

 一方で「珈琲の世界に家族は入って来なくていい」というのが荘一郎さんの信条で、八幡店は自分、谷津店は当初実弟が店長として営んでいたが、ケーキを作っていたスタッフがいなくなったことから理絵子さんも店に立つように。「最初の頃は、『もっと美味しそうに!』なんて、抽象的なダメ出しもあってね(笑)」と理絵子さんは笑う。

一杯取りで5分程度、それ以上は10分から25分程度時間をかけてじっくり抽出。その後、一人前の120ccをイブリック(手打ち銅製の加熱用専用鍋)に移し、60〜65度に温められて提供される。3〜4時間程度で飲み切れるよう、平日は10杯、休日など多いときは20杯ほど立てるそう
甘味と酸味の調和が柔らかい、ソフトな味わいの「ロア・ブレンド」
しっかりとしたボディ、苦味と甘味が調和した「ケア・ブレンド」

 今ではすっかり看板メニューとなったキッシュは、20年ほど前に荘一郎さんが唐突に「作ろう」と言い出して、理絵子さんとスタッフとで試行錯誤し、「グラタン風にしてみたらどうか」と提案。それを食べた荘一郎さんから「これでいこう」という力強い一言があって誕生したメニュー。

キッシュプレートは写真のサーモンとブロッコリーのキッシュなど全部で4種類から選べる。付け合わせのクスクスがポイント
サンドイッチ類も人気。たまごとローストポークがたっぷり入った「クロックムッシュ」  

 そのキッシュと同じくらい、やってくる人たちのお目当てとなっているのは理絵子さんが作る自家製のケーキたち。ガラスケースには常時数種類ほどが美しく並べられ、「せっかくだから2個か3個食べてしまおうか」と誘惑されてしまう魅惑的なルックス。これほどの美味しいものを作れる腕がありながら「料理は好きじゃない」という理絵子さんに驚く。

オレンジの洋酒がきいた「かぼちゃのプリン」
「リンゴとバナナのタルト」は冬季の期間限定

 長い年月の中で、周りからいろいろなものが通り過ぎていってしまったことだろう。しかし、螢明舎の内装や珈琲の味わいは当時から変わらずここにある。そのことがどれだけ大変か、多くの店が閉じてしまうところを見てきた今ではよく分かる。「来てくれた人たちの期待を裏切らないようにやっていきたい。それだけ」と控えめなコメントを下さった理絵子さんのさっぱりしたそのお人柄と、美味しいもの好きたちに愛される店として、これからも螢明舎の明かりは途切れることなく、灯り続けていく。

ガトー・オ・ショコラ、タルトなど焼き菓子はテイクアウトもできる
理絵子さんが目指すのは「まろやかで雑味のない珈琲」。見た目も美しい「オレ・グラッセ」はかき混ぜず、グラスを傾けながら飲むのがコツ。濃厚なミルクと調和した珈琲の味わいが際立つ逸品