文=難波里奈 撮影=平石順一

 

家族の「夢」だった喫茶店は今、人々の心の拠り所へ

 扉を開けた瞬間、森の中にある小さな山小屋のようなぬくもりに包まれる「どんぐり舎」は、1974年に産声を上げ、今年で51年を迎える。窓からの光、低めの天井、そして珈琲の香り。こちらで流れる時間はどこかゆったりとしていて、まるで日常の隙間にある隠れ家のようだ。

 この店を守っているのは、河野三郎さん。18歳で東京に出てきて、長年公務員として働いていたが、10数年前に家業を継いだ。どんぐり舎の始まりは、三郎さんのお母さまとお兄さまによるもの。今の場所を選んだのも、お母さまの友人がたまたま大家さんだったという偶然から。だが、その偶然が生んだ店は、今では街の景色の一部になっている。

お兄さまの趣味が反映された内装

 もともとお兄さまには、ジャズ喫茶をやりたいという夢があったという。しかし、いろいろな想いを経て、現在の形となる。「大工さんたちも楽しんで作った」という店内には、実際の馬車の車輪が使われた椅子、お客さんたちが持ち寄った漫画がぎっしり詰まった棚、どんぐり形のステンドグラスなど、見どころがたくさん。


 
どんぐりモチーフのステンドグラス(上)、馬車の車輪が使用された椅子など、テイストの違うものも自然に馴染む空間

 つい見入ってしまう看板に描かれた特徴的なロゴのキャラクターは、友人に頼んで作ってもらった版画から、味のあるメニューの文字はお兄さまの手書きだという。人と人とのあたたかな繋がりの積み重ねが、この空間を育ててきたのだろう。


 
ロゴの原型になった版画(上)、看板にあるロゴは珈琲を持っているのがユニーク。著者がプロデュースしたミニチュアとともに

 かつてはお兄さまの担当だった焙煎だが、今は河野さん自らが焙煎機に向かう。週3回、2~3時間をかけて丁寧に仕上げる。目指すのは、「爽やかな苦味」「雑味のない苦味」。定番の「ほろ苦ブレンド」は、マンデリンを軸に、モカ・コロンビア・グアテマラをバランスよく配合。まろやかで味わい深く、カフェオレやアイスコーヒーにもぴったりだ。

珈琲を淹れる河野さん

 信楽焼のカップに注がれるこの一杯は、しっかり濃く、それでいてやさしい。水出しコーヒーはマンデリンのみを使用し、7~8時間かけて一滴ずつ抽出する。一度に4杯分しか取れない贅沢な一杯だ。

「ほろ苦ブレンド」を含むブレンドは3種類。飲み物とトースト、ケーキ、クッキーのお得なセットも1日中提供。写真は開店当初からの人気のピザトースト
水出しコーヒーとどんぐりクッキー。どんぐりの形が愛らしいクッキーは外はサクサク、中はホロホロとした食感とやさしい甘さが魅力

 また、訪れる人たちへのサービスとして、かつては推理小説だけを扱う「どんぐり文庫」という無料の貸し本屋もやっていた。喫茶店で過ごす時間をもっと楽しんでほしい、そんなやさしい想いがこの店のいたるところに散りばめられている。

 以前は23時半まで開けていたが、コロナ禍を経て現在の営業時間は20時までとなった。今は月に2回の定休日も設け、今後のためにも無理のないペースで続けている。河野さんを支える奥さまの理恵さんは元保育士で、人と接することで元気をもらえるというが、休日は河野さんとではなく、友人たちと旅行に出かけることでリフレッシュしているそう。「だって、店でも家でも一緒だから(笑)」と、夫婦で過ごす日々のためにもそれぞれの時間を大切にしている。

ブラジルとコスタリカをブレンドした「さんみブレンド」とジャムトースト。ジャムは長野・斑尾にある親戚の店「野の花」のもので、はちみつだけで甘みをつけており、優しく、どこか懐かしい味がする。撮影日はりんご、ブルーベリー、いちごの3種類で、りんごが特に人気
モカを中心に、コロンビア、グァテマラをブレンド、3つの中では最もマイルドな「モカブレンド」と小腹が空いた時にぴったりなチーズマフィン

 一方、河野さんは日ごろの疲れを癒すためにのんびりと過ごすことが多いそう。以前とはまったく違った職に就いたことについて、不安などはなかったのかを尋ねてみたところ、大きく横に首を振りながら答えてくれた。「僕にとっては、喫茶店って精神的に楽なんですよ。安心感があって、ちょっと遊びのような感覚。ここに何時間いたっていいんです」。

 その笑顔から、現在の仕事をまっすぐに楽しみ、この空間を愛していることが分かる。自分の店の魅力について発した、「らしくないのが、らしい」、という言葉が、どんぐり舎の魅力を何よりよく表しているように思った。

ストレートは7種類。おすすめの「マンデリン」は、独特の甘い香りと豊かなコクが特徴
BGMは働く人の気分次第。朝はクラシック、昼からはジャズが多いとか。なんと河野さんはトランペット吹きで、オーディオにも詳しい。音の鳴り方ひとつ、流れる時間の肌触りひとつ、ちゃんと気にしている

 家族の夢として始まった喫茶店は、今では多くの人の心の拠り所になった。純喫茶という存在が提供しているのは、珈琲だけではなく、もっと静かで大きな、目には見えない祈りのようなものなのかもしれない。