画家ドービニーに寄せて
日本にあるゴッホの絵といえば、東京・新宿のSOMPO美術館の《ひまわり》がよく知られているが、もう1枚、《ひまわり》に決して劣らぬ絵がある。ひろしま美術館に所蔵されている《ドービニーの庭》である。ゴッホ最晩年の作になる。
幅103.5cm×高さ53.2cmという大きな画面いっぱいにゴッホ特有のうねるタッチが充満している。どこかの邸宅の庭が描かれていて、庭は芝生だろうか一面草に覆われている。中央に花壇らしきものがあり、庭の周囲は樹木が取り囲み、その向こうに建物がある。
タイトルの「ドービニー」とはゴッホが敬愛していた画家フランソワ・ドービニーのこと。ドービニーはミレーらとともにバルビゾン派を形成した人物で、ゴッホより一世代前に当たる。二人のあいだに直接の交流はなく、ゴッホが一方的に私淑していたかたちである。
2枚の「ドービニー」の違い
1890年5月、ゴッホはオーヴェル=シュル=オワーズへ精神科医の治療を受けるためにやってきた。この地にはドービニーの家があり、ゴッホは併せてドービニー家を表敬訪問する。といっても、そのときすでにドービニーは鬼籍に入っており、ゴッホは未亡人と会っている。
訪問の際に見せてもらったドービニーの庭を作品化したのが本作である。ただし、《ドービニーの庭》というタイトルの絵は3枚あり、そのうち2点がほぼ同じ絵柄になっている。2点のうちの1点が広島にある絵で、もう1点はスイスの個人蔵(バーゼル美術館寄託)である。
バーゼル・バージョンと広島バージョンを見比べると、細かいところが違っている。背景正面の建物や右側の建物の色が違い、広島バージョンの建物はグリーン系中心だが、バーゼル・バージョンでは茶色っぽい彩色が目立つ。また、具象性というべきか、抽象性というべきかも違う。
概してバーゼル・バージョンのほうが具象性が高く、事物が細部まで比較的しっかり描かれ、それが何かすぐわかる。それに対して広島のほうはパッと見ただけでは何かわからないものもあり、バーゼルの作品に比べると抽象度がいくぶん高い。
そして、大きく異なるのは黒猫の有無である。バーゼル・バージョンには黒猫が1匹描かれているが、広島バージョンにはそれがない。ただし、ほんとうは広島のほうにも描かれていたというのが今日の定説で、後年誰かが塗りつぶしたと見られている。猫が塗りつぶされた跡は、そこだけ色合いが違っている。この「黒猫塗りつぶし」はちょっとしたミステリーと見られることもあり、誰が何のためにやったのかがいろいろ詮索されている。
もっとも慎重に計画された絵
ところで、これらドービニーの庭を描いた作品について、ゴッホは弟のテオ宛ての書簡のなかで「オーヴェルにきて以来構想していたもの」で「もっとも慎重に計画された絵のひとつ」だと明かしている。つまり、激情の赴くまま一気呵成に描き上げたのではなく、練りに練って描いたというのである。しかも、ほぼ同じ絵をわざわざ2枚描いている。これは、いったいどういうことだろうか。
バーゼル・バージョンと広島バージョンの描かれた順序については、バーゼル・バージョンのほうが先だということでほぼコンセンサスが得られている。そのため、広島バージョンはバーゼル・バージョンの「レプリカ」だと見られる場合がある。
ほんとうにそうだろうか。バーゼルと広島のものを見比べると、上記のように色調や細部が異なっている(最大の違いは黒猫だが、これは第三者によるものなので除外)。広島のほうが全体的にグリーン系統で統一されており、また、細部が抽象化されている分、非現実に寄っている。つまり、より統一感が演出され、余分なものが捨象されているふしがあるのである。それは、より理想に近い方向へとゴッホがアレンジを施したということではないだろうか。
ゴッホは自殺する6日前の手紙でも「ドービニーの庭の前面には緑と赤の草が生えている。左側に緑の茂みとリラがあり、切り株から出た葉が白みがかっている。中央の地面にはバラの花壇がある・・・」と詳細に認めていて、最後の最後まで本作に執着していたことがうかがわれる。ゴッホの執着の真の理由はわからないが、このこだわりが1枚目で終わらず、2枚目を描かせたと考えるのが自然だろう。
とすると、2枚目は単なるレプリカではない。自分の芸術を探究した果てに辿り着いた到達点、一種の集大成と見るほうが妥当であろう。筆者はこの絵に“涅槃の美”とでもいうような調和した世界を感じる。本作を描いた直後にゴッホは自殺しているので、余計そう感じるのかもしれないが、一つの極みを見る想いがするのだ。
ということを考えていくと、この広島の絵こそがゴッホの絶筆だという見方があるのも、なるほど道理だと肯かれてくる。いや、時間的に絶筆かどうかはさほど重要ではない。先の執着心といい、ゴッホにとって特別な絵であったのは間違いなく、よくぞこの絵が日本にあってくれたことよ、と思えてくるのだ。
ひろしま美術館には他の秀作も多く所蔵されているが、中国地方へ行った折には、この1枚のためだけに美術館を訪れても惜しくはない。