新型コロナウイルスの猛威が止まらない――という言い方が決まり文句になっている。が、それは必然のことである。残念ながら、日本は諸外国よりもぬるい対策を、遅いタイミングでしか打っていないのだから、「猛威が止まらな」くて当たり前である。今後しばらくはまだこの状況が続くことになる。
こういうときは、強いて元気を出し、美しいものを愛で、悲惨な現実をひととき忘れようとする方略があるのは弁(わきま)えているが、私自身イマイチ晴れやかな気分というわけにはならないし、無理してそんな調子で書いても、どこか空々しい文章になってしまうだろうから、あまり飾らず、つくらずに書いてみたい。そのため、今回はちょっと重いトーンになるかもしれないが、ご容赦願いたい。
第二次大戦直後に描かれた大作
重いもの、憂鬱なものは「悪」として位置づけられることがあるが、かのデューラーはそういうものにこそ真理を見出せると説いた。虚飾が剥ぎ取られた状態でじっくりと対象を見つめることで初めて見出せるものがあるという。デューラーのこの考えを彷彿とさせる作品が静岡県のベルナール・ビュフェ美術館にある。
ビュフェの《キリストの受難》三部作は、第二次大戦直後のフランスで描かれた作品である。戦争で荒廃した世の不安や虚無感が見事に描き表われ、当時の人々に大きな衝撃を与えた、とされる。ベルナール・ビュフェ美術館にはそのうちの2点が常設展示されている。大きさはそれぞれ5m×2.5mほどもある巨大な絵である。
ビュフェの描いた人間は奇妙だ。まるで定規で引いたような直線的な体は、角張り、細長く、丸みのない硬いシェイプになっている。人間の体から贅肉をすべて削ぎ落としたらこうなる、とでもいうが如き姿である。また、一人ひとりの個性も感じられない。
色彩は全体が暗いトーンに支配されている。グレー基調のなかに土色が混じった抑制された統一感が際立ち、「華やか」とか「希望」といった言葉は入り込む余地がない。地平線はごく低く、背景は浅いグレーのみで何も描かれていない。無味乾燥というほかない、飾り気のない絵なのである。人物の振る舞いがどこか戯画的に感じられるのがわずかな救いといえようか。
このように、本作には虚飾がまったく存在しない。厳格なまでにストイック、自虐的なまでに痛々しい絵である。あなたはこの絵を見て、どういう印象を抱くだろうか。ちなみに、アルベール・カミュが『ペスト』を書いたのも同時代である。
美しいものばかりが芸術ではない
ヘビーな絵であるにもかかわらず、本作には人を惹きつける不思議な魅力がそなわっているように思う。虚飾が排されているということは、ここに表現されているのは本質である。幹と枝葉という言い方をすれば幹であり、実質と表層と言い方をすれば実質である。一つずつ順番に剥がしていった最後に残る、事象の核心を直截的に描き表していることが、私たちの琴線に触れるのかもしれない(いま多くの人が『ペスト』を読んでいるが、それと共通するものかもしれない)。
この2点と初めて出会ったとき、私はかなり長い時間、絵と向き合っていたように思う。決してきれいでもなければ心浮き立つ絵でもない。なのに、すぐには離れ難かった。すると、見ているうちに、ムチ打たれうなだれたイエスが私の心に語りかけてきた。「おまえの生き方はムダばかりではないのか?」「大切なものを見誤っているのではないか?」。私は即答できず、絵の前でひたすら沈思黙考するほかなかった。
ムダといえばムダなもの、不要といえば不要なものを捨て去ったあとには、真に必要なもの、大切なものが残る。いま、新型コロナウイルスの脅威という未曽有の事態に晒されて、私たちはふだん身にまとっていた飾り物を次々に剥ぎ取られ、本性を露わにさせられている。その結果、物事の何が幹で何が枝葉か、自分をも含めたあらゆる人の本性とはどういうものだったか、改めて気づかされている。
これまでクレバーだと思っていたのにじつは無能だった人、自分と同じ考え方だと思っていたが根本のところで違っていた人、どこまでも我利に走る人、肝心なときに思考停止になる人、そうかと思うと、窮地において自分を投げうって他人に尽くそうとしている人などなど、むき出しの人間が姿を現している。こういうとき、われわれはそれを見定めておかねばならない。
本作のテーマは「キリストの受難」だから宗教画ということになるが、私にはそれにとどまらない普遍性があるように思われる。人間の営みの根源的なもの、人間のありようの偽りのないところを静かに見る者に問いかけていると感じる。本作を鑑賞すると、絵とは美しいばかりがすべてではないと教えられる。
ベルナール・ビュフェ美術館は5月6日まで臨時休館(予定が変更される場合あり)となるし、いまは外出を控えるよう強く呼びかけられているから、いますぐ見に行くことを推奨することはできないが、私たちの生活に再び平穏が戻った折には、このコロナ禍を再確認する意味でも、ぜひこの作品とじっくり向き合い、己と対話してもらいたい。