正月に見られる“お宝”とは?
ご存じだろうか、上野の東京国立博物館では毎年、年の初めにある“お宝”の展示が吉例となっている(2020年は1月3日~13日)。1年のうちでもこの時期しか見られないとあって、これを目当てに博物館を訪れる人も少なくない。
その“お宝”とは何か。もったいぶらずに明かすと、江戸時代の絵師・長谷川等伯の《松林図屏風》である。前回ご紹介した岸田劉生の《道路と土手と塀(切通之写生)》は重要文化財だったが、こちらはさらに上を行って国宝に指定されている。ちなみに、国宝とは重要文化財のなかでもとくに価値が高いと認められたものに与えられる栄誉だ。
等伯を襲った悲劇
長谷川等伯は能登国、七尾の出身である。地方の絵師としてそれなりに活躍していたらしいが、齢30代も半ば頃になってから、大成することを願い、突如として妻子を伴って都へ上った。
現代になぞらえれば、家族があるのに中年になってから急に安定した生活を捨て、ベンチャー起業に挑んだ、といったところだろうか。必ずしも成功が約束されていたわけではなかったから、ヘタをすれば一家そろって路頭に迷う可能性もあった。無謀といわれても仕方のない選択だったといっていいだろう(あなたに等伯のような生き方が選べるだろうか)。
幸いにも、運よくというべきか、実力が花開いて必然の結果というべきか、等伯は都で一派をなすに至る。しかも、息子の久蔵が等伯をも上回る技量の持ち主に成長し、狩野派という絶対的存在があったのでわが世の春とまではいわずとも、長谷川派はまずは順風満帆といってよい人生行路を得ることができた。
ところが、好事魔多し。いずれ父の跡を継ぎ、次代の長谷川派を担う逸材と期待を寄せられていた久蔵がわずか26歳で急死してしまう。1593年6月、等伯55歳のときだった。等伯の悲嘆はいかばかりだったろうか。その心情は今日の人間にも察して余りあるものがある。そして、久蔵の死の直後の時期に描かれたと見られるのが、この《松林図屏風》なのである。
人が変わったような枯れぶり
本作は、国宝という仰々しい触れ込みにもかかわらず、驚くほど簡素な絵である。極言すれば、墨一色で松林が描かれているだけでほかには何もない。細密な超絶技法が繰り広げられているわけでもなければ、極彩色に彩られているわけでもない。描かれている部分より白地のほうが多いほどで、素っ気ないくらいだ。
また、この絵は等伯のそれまでの画風とは随分違っている。《松林図屏風》に先駆けて描かれ祥雲寺(現在の智積院)に納められた大作群では、等伯は技量の粋を凝らしている。金箔をふんだんに使い、壮大にして華麗な絵画世界が展開されている(ちなみに、そちらも国宝に指定されている)。それに対して、《松林図屏風》はまるで人が変わったかのような枯れぶりなのだ。
もうひとついえば、当時、絵師は誰かからの依頼があって初めて描くのがふつうだったが、《松林図屏風》は誰からの依頼でもなく、等伯自身の発意で描かれたともいわれている。
アートを“自分ごと”として見る
このように、異例ずくめの《松林図屏風》だが、本作を一目見るや、きっと多くの人の脳裏に強く刻み込まれるものがあるだろう。あたかも禅の境地を思わすような、一切の華美を削ぎ落とした枯淡の極致。それだけに、これだけは捨てられない、あるいは、これさえあれば人は生きていけるという本質が仮託されているかの印象が見る者の心に湧き出てくるように思う。
等伯がどうしてこの絵を描いたかは謎に包まれたままだが、久蔵の死を念頭に置くとき、胃の腑にすっと落ちるものがある。田舎から出てき、苦労の果てにようやく成功をつかみ、後継ぎ息子も立派に育ってきたという矢先に襲った悲劇。もし、あなたが等伯の身であったらどうだったろうか。もはや、華麗にしてきらびやかな絵など描く気は失せてしまったとしても不思議ではないのではないか。実際、等伯は以後、ほとんどモノクロームの水墨画しか描いていない。
霧のなかに見え隠れしながら静かに立つ松の木々。それは風景でありながら、等伯自身の姿ではなかったか。霧中に立ち尽くすなかで湧きいずるさまざまな想い。成功とは何か、人生とは何なのか。祈りにも似た等伯の問いがこの絵には込められているように思われてならない。
作品を客観的な視線ではなく、自分ごととして見るとき、アートは別の顔を見せ始める。それまでとは違った、親密で、自分ならではの見え方と意味が立ち上がってくる。これからのアート鑑賞とは、そのようなものであってよい。
ともあれ、日本人であれば、知らなければ恥ずかしい、知っておいてほしい、あるいは自分ごととして体験してほしい一品である。お正月は上野へ出かけてみてはいかがだろう。