都会のど真ん中にある美術館
読者諸氏は、どれくらいの頻度で美術館を訪れているだろうか。仕事が忙しくて、なかなか行けない? ま、それはそうかもしれないが、ビジネス街の近くにも「すごいアート」があることをご存じだろうか?
東京に勤めているビジネスパーソン向けの話となってしまい恐縮なのだが、竹橋の東京国立近代美術館にその絵はある。岸田劉生作《道路と土手と塀(切通之写生)》。岸田劉生といえば、愛娘の麗子の姿を描いた《麗子像》の連作で知られるが、このような写生画も残している。
さっそくだが、この絵をご覧になってあなたはどんな印象を抱くだろうか? ネットの画像では実作とは見え方が違うので難しい質問かもしれないが、飾るところのない感想を自分のなかでまず確かめておいてほしい。では、以下、絵を“点検”していくので、作品を見ながら読み進めていただきたい。
「説明する」だけで見えてくる新発見
ご覧のように、本作は未舗装の坂道が画面下方から登っていく景観が描かれている。坂道は濃い褐色で、その表面は平滑ではなく、ところどころうねるように盛り上がっている。とくに道の真ん中あたりが強く盛り上がっている。画面奥へ行くにつれて見た目の道幅は急速に狭まっていき、画面真ん中ほどで坂の頂点に達し、その先は視界から消えている。道が消えた向こうには鮮やかな濃い青の空が広がり、褐色の道と強い対照をなしている。
道の左側には白い塀が道に沿って続いている。塀は石造りで、下半分ほどが丸い石を積み重ね、上半分は板状となっている。丸石を積み重ねた部分はとくに堅固に見え、ところどころ雑草が生えている。石塀と道の境目にも雑草が生えている。また、石塀の向こう側に濃い緑の木が生えているのが少し見えている。
一方、道の右側は矩形の小さな崖になっていて、坂道に面した側が逆光のためにほとんど黒く潰れている。崖の上や手前にやはり木々が見える。画面手前側には絵に描かれていない電信柱の黒い影が道を横切っている。電信柱の影は二本あり、左に向かうにつれて二本の間隔は狭まり、白い壁のところでちょうど重なっている。
この絵を説明していくと以上のようなことになろうか。ところで、いま絵の説明を読みながら、あなたのなかに何かが生じたということはないだろうか。ただ見ていたときには気づかなかったことに気づいたり、説明を読むことで何かの考えが湧いてきたり、新しい感覚を覚えたりといった何らかの“発見”があったのではないか。
「ディスクリプション」とは?
じつは、そうなるように仕向けた。いま記したように作品を言葉で説明することを「ディスクリプション(description)」という。ディスクリプションとは「叙述」「説明」という意味で、アートで用いられる場合は、このように作品の様態を言葉で説明する作業を指す。
ディスクリプションは、作品のありさまを言葉で説明するだけで、解釈したり考察したりするものではない。にもかかわらず、ディスクリプションを進めていくと、作品のなかに潜んでいることが見えてきたり、作者の考えが理解できたり、制作上の工夫が把握されたりする効果がある。
つまり、鑑賞が深く、鋭くなるわけだ。ディスクリプションは鑑賞力アップのための即効性あるテクニックといえ、頭のなかで行うだけでも効果があるので、ぜひ覚えておいてもらいたい。
《麗子像》だけじゃない、岸田劉生の魅力
この《道路と土手と塀(切通之写生)》でもディスクリプションによって、きっと何かが得られたことだろう。私が本作を初めて見たときは、異様な何かを覚えた。風景自体はただ街中の坂道の景色が描かれているだけなのに、印象としては何やらドキッとするものがあり、しばらく私は本作に釘付けになってしまった。あとになって、この絵は重要文化財に指定されていると知り大いに納得した。
私の感じたものは「大地の力動」とでもいうようなものだったように思う。うねって盛り上がっている土の道から地球のうごめきが肉迫してくる感じとでもいおうか。そのために、さほど大きな絵ではないのに圧倒されるものがあった。私の感じたことは、あなたの感じたことと相通じているだろうか。あなたはどんなことをこの絵に感じただろうか。
岸田劉生自身は次のように語っている。「道を見ると、その力に驚いたものだ。地軸から上へと押し上げている様な力が、人の足に踏まれ踏まれて堅くなった道の面に充ちているのを感じた」(岸田劉生画・文、北沢憲昭編集『岸田劉生 内なる美』二玄社)
劉生は、やはり単なる風景画としてこの絵を描いたのではないらしい。一種ただならぬ印象を本作に抱くのも当然の帰結といってよさそうである。
このような作品を見ると、アートとは単に「美」の表現にとどまらないことがおわかりいただけるかと思う。アートが人間の営みのなかから生まれてくるものだとしたら、人間の営みと同様、決して限りのない広がりを持つものなのである。その広くて深い世界へとさらに分け入ってみようではないか。