金沢出身の知の巨人・鈴木大拙
前回、福山の禅寺をピックアップしたが、今回も引き続き禅つながりでいってみたい。というのも、ご紹介する「鈴木大拙館」は現代のビジネスパーソンにこそ訪れてもらいたいところだからだ。
金沢の新名所としてすっかり定着した感のある金沢21世紀美術館。「すごいアート」ということなら、ここを取り上げてしかるべきなのだが、あえて素通りし、美術館から歩いて約10分の住宅地のなかにある鈴木大拙館へと足を向ける。
金沢出身で知の巨人と呼ばれる鈴木大拙を紹介する施設だが、ハードそのものはそれほど大きくはない。しかし、山椒は小粒でもの喩えのように、個性が非常に際立っている。建物の設計は美術館建築で知られる谷口吉生氏で、打ちっぱなしのコンクリートが必要以上の飾り気を排した空間をつくり出す。
内部は展示品がズラリと並んでいる、というわけではない。多少の展示物はあるが、ここでは「モノを見る」ことよりも「コトを考える」ほうに主眼が置かれている。そして、訪れた人の思索を促すための“仕掛け”がそこかしこに埋め込まれている。
中庭に当たるところは「水鏡の庭」と名づけられた場所になっている。庭といっても、芝生が広がっているとかではなく、ほぼ正方形の水面、つまりは池だ。「ほぼ正方形」というのは、一部が欠けているからで、正方形として完成された形ではなく、そのことの意味をおのずと考えさせる。
あたりは静寂に包まれている。小さな桟橋のような箇所があり、その突端に立つと水面へ突き出したかたちとなる。水に囲まれてしばし佇み、その名の通り、鏡の如き水面を見つめていると、我知らず意識が集中してくる。と、ふいに水面の真ん中から水が湧き出し、波紋が円環状に広がってゆく。何かが示唆されているようでハッとなる。
「内」と「外」が曖昧な空間
水鏡の庭の一角には「思索空間」と名づけられた建物もある。コンクリート壁に囲まれた四角い部屋で、狭い出入口が三方向に開いている。なかに入ると下から2メートルほどまでが黒く塗られた空間になっている。畳表のベンチが並んでいて腰かけることができる。暗めの空間に囲まれているせいか、座ると気持ちが落ち着いてくる。人それぞれ、さまざまなことを想う時間が流れる。私が訪れたときは何人かの欧米人の姿があった。きっと、「Zen」の神秘を味わっていたことだろう。
入ってきたのと反対側の出入口から思索空間を出ると、別の建物に続く回廊へと自然に導かれる。「外」から来たのがいつの間にか「内」になっており、「内」と「外」の区分けが曖昧だ。設計者の巧みな演出である。どこまでが「外」で、どこからが「内」なのか、にわかには判然としない。
歩を進めるうちに、そういえば私たちは「内」と「外」の境界をどのように決めているのか、改めて常識が問い直されてくる。「決めている」というのは、かなり恣意的なことではなかったか。本来はもっと融通無碍なものではないのか。既成概念が疑われる。そして「内」と「外」は、「仲間」と「部外者」、「味方」と「敵」といった他の関係にも援用できることに気づかされる。
“仕掛け”はほかにもいろいろあり、爪の立て方次第でさまざまなことを考えさせられる。そのバリエーションは、おそらく無限といっても過言ではないのだろう。
振り返れば、私たちの日常は忙しく、ふだん私たちは仕事に直接関係のあることしか考えなくなってはいないだろうか。そして、そんなままに日を送り、月を送り、齢を重ねているというのが大半の人の実情ではないか。はたして、それで自分の人生を生きているといえるのか、人間としてあらまほしい姿なのか・・・ここではそんなことをも内省する機会が得られる。
鈴木大拙の思想を具現化し、人々に思索を深めてもらうという難題とも思えるミッションを見事に為しているところである。建築としても、「シンプルなカオス」とでもいうような他に類を見ない構造と作用を有する作品と評することができる(日本建設業連合会のBCS賞を受賞している)。現代人なら一度は訪れておきたい異色のミュージアムだ。時間をかけて過ごしていただきたい。