(城郭・戦国史研究家:西股 総生)
明らかに士気が低下していた豊臣軍
今回は、ロジスティクスという観点から戦国合戦を考えてみよう。題材として採りあげるのは、豊臣秀吉による1590年(天正10)の小田原攻めである。この戦いについて書かれた本には、たいがい次のような説明が出てくる。
小田原を本拠とする北条氏は、かつて長尾景虎(上杉謙信)や武田信玄による小田原侵攻を凌いだ経験から、籠城戦に自信を持っていた。そこで、秀吉が大軍で攻め寄せてきても、長期戦に持ち込めば兵粮に窮して退却するだろう、と踏んでいた。ところが、豊臣軍は20万もの大軍を動員したばかりか、大量の兵粮と輸送船も用意して万全の補給態勢を整えていたために、兵粮に窮することはなかった。豊臣軍の経済力や補給能力をみくびっていた北条軍は、目算が狂って手詰まりに追い込まれたのだ、と。
事実だとしたら、豊臣政権の戦争遂行能力は大したものだ。補給を軽視して敗退した大日本帝国陸海軍に、太閤殿下の爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいものだ・・・といいたいところではあるが、いったいどうすれば、そのような大補給作戦を成功させられるのであろうか? いや、その前に、小田原攻めの話を本当に信じてよいものだろうか?
ルイス・フロイスというポルトガル人宣教師が残した、『日本史』という記録がある。その中で、フロイスは小田原攻めについて、豊臣軍の兵士たちは長途の行軍と食糧不足で疲弊しており、戦いが長期化すれば豊臣軍は崩壊するだろう、と述べている。
また、徳川家康の家臣だった松平家忠が書き残した『家忠日記』という史料がある。これを読むと、小田原攻めの陣中で、下級兵士の脱走や盗難といった不祥事が続発していたことがわかる。長陣では多少の不祥事は致し方ないのかもしれない、と思って『家忠日記』の他の箇所を読んでみたが、同様の話は出てこない。
家忠が日記に書いている不祥事は、基本的には自分の部隊でのできごとだから、包囲陣全体となると、相当数の脱走兵が出ていたことになる。小田原攻めの豊臣軍は、明らかに士気が低下していた、と見てよい。
豊臣軍の兵粮不足の様子は、北条側が残した史料にも見える。豊臣軍の先鋒各隊は2月下旬頃から順次、三島付近に着陣して秀吉の到着を待っていた。一方の北条方は、三島から箱根路を登ってゆく途中に山中城を築いて、豊臣軍の攻撃を待ち受けながら、情報収集につとめていた。
その山中城には、豊臣軍先鋒部隊の兵士たちが、兵糧不足で山芋を掘っているとか、陣中で薄い粥が高値で売られている、といった報告が入っていた。城側では、この情報を小田原城にも伝えている。
通説は、こうした報告を、北条方が豊臣軍の補給能力を見くびって戦局を楽観していた証拠だ、などと解釈してきた。中には、相手を油断させるため、豊臣方が流した謀略情報に引っかかったのだ、などと論じていた歴史家もある。
しかし、フロイスや松平家忠の証言とあわせて検討するなら、豊臣軍はやはり兵粮不足に陥っていた、と考えるべきだろう。北条方が豊臣軍を見くびっていたとか、謀略情報だとかいうのは、先入観から逆算してえた推論でしかないのだ。(つづく)