秀吉の小田原攻めに見るロジスティクスの難しさ “大補給作戦”の真相(前編) 2021.3.9(火) 西股 総生 フォロー フォロー中 生活・趣味 歴史 シェア0 Tweet この写真の記事へ戻る 豊臣秀吉が小田原攻めの本営として築いた石垣山城。俗に「一夜城」と呼ばれるが、3か月近い突貫工事で築き上げたもの。撮影/西股 総生 豊臣秀吉像(Wikipediaより) 早雲寺。湯本にある北条五代の菩提寺だが、秀吉はここに本陣を置く一方、突貫工事で石垣山城を築いていった。撮影/西股 総生 石垣山城の本丸跡。秀吉はここで諸将に謁見した。画面奥に見える高まりは天守台の跡。撮影/西股 総生 松平家忠像(Wikipediaより)。徳川家康の家臣。合戦そのものより浜松城やまた高天神城攻めの付城などの城郭の普請や補修などに従事していたといわれる。 北条軍の前衛となった山中城。豊臣軍の猛攻により落城したが、豊臣方も多数の死傷者を出した。写真に写っているあたりも、当時は死体の散乱する血の海だったはずだ。撮影/西股 総生 山中城の本丸跡。守備隊長の松田康長は、この場所で指揮をとり、小田原に報告書を書き、画面奥の櫓台の上で壮絶な討ち死にを遂げた。撮影/西股 総生