本能寺跡。天正10年6月2日未明、明智光秀はここに織田信長を襲って自害させた。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

「中国大返し」の本当のキモ

 備中高松城の水攻めにあたっていた羽柴秀吉が、本能寺の変の第一報に接したのは天正10年(1582)6月3日の夜である。明智光秀は2日の未明、本能寺に織田信長を襲い、直後に毛利方に密使を発していたが、これが秀吉軍に捕らえられたのである。

 ここからの秀吉の動きは速かった。備中高松城主の清水宗高を切腹させれば包囲を解いて城兵を助ける、との条件を毛利方に持ちかけて停戦を成立させ、6日には備前まで撤退。世にいう中国大返しの始まりである。

豊臣秀吉像(wikipediaより)

 光秀が畿内制圧に動き出した8日、秀吉は居城の姫路城に着く。3日後の11日、光秀が畿内諸将の支持を得られないことに焦りを募らせていた頃、秀吉は大坂に入って摂津方面の織田方諸将を糾合にかかり、13日には山崎の合戦で光秀軍を破るのである。

山崎合戦の際、光秀が本陣を置いたという恵解山古墳。撮影/西股 総生

 秀吉の中国大返しについては、これまでも、万単位の軍勢をなぜ、これほどすばやく移動させられたのか、兵士たちの食料をどう確保したのか、という問題が取りざたされてきた。しかし、軍勢の移動については、筆者は特段不思議だとは思わない。

 なぜなら、秀吉軍は自軍の補給線を逆にたどっているだけだからだ。まず、備前は秀吉に従っている宇喜多氏の領国で、備中戦線に対する秀吉軍の出撃拠点だ。そうである以上、万一備中戦線が危機に陥った場合、備前まで退却することは最初から織り込み済みである。

宇喜多秀家像(Wikipediaより)。秀吉は万一毛利勢から追撃される場合を考え、備前に宇喜多秀家の軍を留め置いていた。

 次に、もともと近江の長浜を居城としていた秀吉は、播磨を平定し、中国方面軍司令官に任じられたことによって、姫路を居城としていた。つまり、この時点で姫路は、備中戦線に対する後方支援基地なのである。当然、兵糧などの物資も備蓄されている。

 であるならば、まず備前まで退却し、そこから腰兵糧(携行食糧)をもって姫路まで走れば腹を満たせる。いったん兵を休ませ、姫路から腰兵糧をもって東に向かえば、2、3日で大坂に着く。大坂は大都会だし懇意の商人などもいるから、兵糧の調達はどうにでもなる。こう考えるなら、軍勢の急速な移動そのものは不思議でも何でもない。

備中高松城跡。城は低湿地に囲まれた微高地に築かれていた。画面奥が本丸跡。撮影/西股 総生

 中国大返しの本当のキモは、秀吉の判断の速さに求めるべきだろう。変事の第一報に接するや、ただちに戦線をペンディングさせ、軍を反転させる決断をためらわずに下し、実行に移したところが、秀吉の勝因なのである。

 この秀吉の迅速な決断についても、不思議がる人が多い。6月3日夜の第一報の時点では、情報の真偽も信長の安否も確認できていないからだ。毛利方への密書を謀略と疑うことなく撤退を決断できるものなのか? いや、それをいうなら、このタイミングで光秀からの密使を捕まえた、という話そのものが出来すぎではないのか?

 現状では、戦国史研究の第一人者のである先生方までもが、こうした点に疑問を呈し、秀吉は光秀が謀叛することをあらかじめ知っていたのではないか、などと大まじめに論じている。しかし、秀吉の迅速な判断と行動は、筆者にいわせれば不思議でも何でもない。秀吉が置かれた「現場」の状況を「作戦」という観点から分析すれば、むしろ当然の判断とすらいえる。

 どうも、研究室で史料や論文を読んでいる先生方は、戦場という現場で起きている事件を、「軍事」という観点から理解することが苦手のようだ。(つづく)

安土城天守台の礎石。本能寺の変ののち光秀は安土城を接収したが、畿内周辺の大名たちを味方につけることができなかった。

◉中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(中編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63912
◉中国大返しに見る戦国武将の危機管理術(後編)
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63913