
日本を代表する経営者であり、本田技研工業の創業者でもある本田宗一郎氏。その考え方は時代が変わってもなお、耳を傾ける価値がある。本連載では、今も多くの人に読みつがれる『本田宗一郎 夢を力に』(本田宗一郎著/日本経済新聞出版)から、内容の一部を抜粋・再編集。裸一貫から世界への扉を開いた名経営者の行動力と言葉に、改めて光を当てる。
今回は、本田技研に浸透する「理論尊重の気風」について紹介する。突飛なことをしているようでも絶対にスジを通す本田宗一郎氏の強い信念とは?
※本記事の中には今日、差別的とされる語句や表現がありますが、作者が故人であり、作品の発表された時代的・社会的背景も考慮して、原文のまま掲載いたしました。
社内にしみわたる理論尊重の気風

世間では本田はアプレだなどというが、外からはあぶなそうに見えてもそこは非常に慎重にやっている。
よその会社は工場を先に作ってから品物を作りはじめるが、私は品物を作ってみて、これなら売れるという見通しがついたとき一気に資本を投下する。
鈴鹿に工場を建てたときも、いま市場に出回っている50ccのスーパー・カブが完成し、これなら絶対に売れる、2年半か3年でモトがとれるという自信が、各種のデータを検討の結果持てたので踏み切ったのである。
一例をあげると、全国に2、3か所モデル販売地区を選び、新製品をここに集中的に配車し、その結果を検討した。こうすれば全国では何万台売れるかという見通しが立つ。そのような見通しを得てから鈴鹿市と土地交渉にはいった。
ここは元鈴鹿海軍工廠跡で、工場敷地としては最適地であるが、この工場建設について私や専務はいっさい口出しをせず、決めたのは土地だけ。若い者の創意と生命力に強く期待してちゅうちょなくこの大事業のすべてを彼らにまかせる気になり、“全社員の創意くふうで鈴鹿にモデル工場を作れ”と指令を出した。
すると平均年齢24、5歳の連中が各職場からチエを出してきた。建築関係者は建物について、技術研究所の連中は技術的なアイデアを、というぐあいにそれぞれの技能、持ち場に応じて適切なアイデアを出し合い、ついに100億円に近い大工場を無事完成させたのである。鈴鹿製作所は若い人たちの集大成であり、世に誇りうることと思う。