武田信玄が本拠地とした躑躅ヶ崎館の近くにある武田信玄の墓所。伊那の駒場で没した信玄の遺体は、極秘裏に甲斐に運ばれた。撮影/西股 総生

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

◉武田信玄〝西上作戦〟の真相・前編はこちら
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/63489

行き詰まる信玄の戦略

 第4回川中島合戦で、善光寺平における軍事的プレゼンスの維持に成功した武田軍であったが、これ以上の北進が困難であることも思い知らされた。ここで信玄はいったん、信濃の西隣である飛騨へと矛先を転じる。

 ところが、武田軍の先鋒が飛騨に侵攻すると、上杉謙信はたちまち川中島に出陣してきた。飛騨が武田の版図に組み込まれれば越後が西から脅かされる、と判断し、武田軍の作戦線をサイドから突くために、川中島に出てきたのだ。信玄は、飛騨侵攻を諦めざるをえなくなかった。

春日山城に立つ上杉謙信像。撮影/西股 総生

 ここでようやく信玄は、駿河へと目を向ける。しかし、これには嫡男の義信が反対した。義信は今川義元の娘を夫人としており、周囲に親今川派が形成されていたからだ。信玄は武田家中をまとめるために、強硬手段に訴えることになった。義信を幽閉して自害に追い込み、親今川派を粛正したのである。

 1569年(永禄11年)、こうした痛手の上で駿河を侵した信玄の前に、今度は相模の北条氏康が立ちはだかる。三国同盟を一方的に破棄したことに怒った氏康が、東から駿河に攻め入ったのである。

北条氏康像(Wikipediaより)

 手詰まりになった信玄は、いったん駿河から撤収する。そして翌1570年、大軍を率いて関東へと侵攻し、北条領内を荒らし回りながら小田原へと迫った。北条軍を痛めつけることによって、駿河から手を引かせようとしたのだ。

 しかし、氏康もしたたかだった。兵力の温存につとめた上に、これまで対立してきた上杉謙信と結んで、武田軍を挟撃する構えを見せたために、信玄も兵を引かざるをえなかった。おまけに、三河の徳川家康も、謙信との同盟に動き始めていた。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(Wikipediaより)

 もともと信玄は、駿河侵攻にあたって家康に「自分は東から行くから、そっちは西から来いや」と、今川領の分割を持ちかけていた。ところが、実際に戦いが始まると、ドサクサに紛れて戦果拡大をはかる武田軍の動きに、家康は不信感を募らせていたのだ。まあ、義元にさんざん世話になっておきながら、信玄の誘いに乗って今川領をかすめ取ろうとする家康も、充分にドロボー猫なのではあるが。

 いずれにせよ、この時点で信玄の膨張戦略は完全に行き詰まってしまった・・・のだが、事態は意外な方に展開する。北条氏康が病に倒れ、1571年(元亀2)の11月に没してしまったのだ。跡を継いだ氏政は、北条家の損得を冷静に判断して謙信と手を切り、信玄と結び直す道を選んだ。

 かくて北条は再び関東に、武田は東海道へと、勢力を広げる戦略が確定した。信玄の目標は必然的に徳川となる。上杉・北条・織田にくらべれば弱小勢力だからだ。

 このようなタイミングで、「信長を討て」という義昭の要請が届いたとすれば、信玄にとっては、渡りに船以外の何者でもない。織田の同盟者である徳川の領内に、大義名分を掲げて侵攻できるのだ。信玄の作戦目的が、上洛でも足利将軍家の護持でもなかったことは、明らかではないか(義昭が信玄に御内書を出した時期については、近年再検討がなされている)。

〝西上作戦〟〝上洛戦〟などという見方は、中央からの上から目線、〝信長中心史観〟にすぎないのである。

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