甲府駅前にある武田信玄像

(城郭・戦国史研究家:西股 総生)

武田信玄「未完」の戦い

 1573年(元亀4)3月、武田信玄は三河の野田城を包囲する陣中で体調を崩した。武田軍は信濃の伊那地方へ撤退したものの、信玄の病状は悪化し、4月12日には駒場の地で帰らぬ人となる。

 この信玄未完の戦いは、一般には「西上作戦」とか「上洛戦」とされている。当時、織田信長との関係が悪化していた将軍・足利義昭は、各地の大名に信長討伐指令を発していた。この指令を受けた信玄も、上洛を目指して作戦を開始した・・・といったいきさつは、今回の大河ドラマ『麒麟がくる』でも描かれていたところ。

 でも、残念ながら、真相はちょっと違う。いや、信玄が三河に兵を出したのも事実だし、義昭も信玄を頼りにしていた。違うのは、そこではなく、作戦の目的という部分である。

 どういうことなのだろうか? 話は20年ほど前にさかのぼる・・・ 。

武田信玄が本拠地とした躑躅ヶ崎(つつじがさき)館。現在は城内に武田神社が鎮座している。撮影/西股 総生

 1554年(天文23)、信玄は相模の北条氏康、駿河の今川義元と、相互の婚姻関係をともなう同盟を結んだ。世に言う三国同盟である。戦国時代には外交関係がめまぐるしく変化したから、同盟が急に破棄されることは珍しくなかったが、この三国同盟は長続きした。相手のピンチに援軍を送ったり、共同戦線を張ったりと、効果的に機能もした。

 信玄も氏康も義元も、互いに相手をリスペクトする紳士だったから・・・なわけはない。信玄は権謀術数の人だ。北条氏康はコワモテの武闘派だし、今川義元も抜け目のない打算家である。同盟が続いたのは、三者それぞれに〝うまみ〟があったからに他ならない。

 すなわち、信玄は信濃へ、氏康は関東平野へ、義元は遠江・三河へと、互いに背後を気にすることなく、勢力拡大ができたのだ。相手に援軍を送れば、貸しも作れる。こうして信玄は、群小のローカル勢力を組み敷いて、信濃にぐいぐいと勢力を広げていった。

 ところが、1569年(永禄11年)にいたり、信玄は一方的に同盟を破って、駿河へと侵攻する。この駿河侵攻は、今川義元が桶狭間合戦で織田信長に討たれ、今川家が弱体化したため、と説明されることが多い。また、信玄は海への出口を欲していたのだ、と経済政策から説明されることもある。

 だが、話はそれほど単純ではない。桶狭間で義元が敗死したのは、1560年(永禄3)。それから駿河侵攻まで9年間もあるのだ。時間軸に沿って武田家の動きを整理することで、信玄の戦略をあぶり出してみよう。

 まず、順調に信濃を制するかに見えた武田軍は、善光寺平(長野盆地)まで進出したところで、大きな壁に突き当たった。強敵・上杉謙信(当時は長尾景虎)の登場である。

「毘沙門天の化身」といわれた上杉謙信。背後に見えるのは居城の春日山城。撮影/西股 総生

 越後一国を束ねる上杉謙信は、信玄がこれまで相手にしてきた群小勢力とは、ワケがちがった。しかも、神がかり的なカリスマ性を備えた戦の天才である。信玄は、善光寺平で上杉軍と対陣を重ねることになった。

 とくに、1561年(永禄4)に起きた第4回川中島合戦では、両軍の主力どうしが正面衝突して、戦国屈指の大激戦となった。武田軍はこの戦いで、多くの犠牲を払いながらも、前進基地だった海津(かいづ)城を確保することができた。(つづく)

第4次川中島合戦で、信玄の拠点となった海津城。関ヶ原の戦いの前に当時の城主森忠政が「待城」、その後松平忠輝が「松城」と改め、真田三代藩主幸道のときに松代城と改められた。

 

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