石見銀山で唯一常時見学できる坑道・龍源寺間歩 写真/フォトライブラリー

(髙城 千昭:TBS『世界遺産』元ディレクター・プロデューサー)

「なれるかも幻想」の始まり

 株価や地価が急落して「バブルがはじけた」といわれた1992年、日本は20年遅れで世界遺産条約にやっと参加した。そして翌93年に「屋久島」「白神山地」「法隆寺」「姫路城」の4件が初めて世界遺産リストに登録される。

 振り返ってみれば、それまで右肩上がりの経済成長(世界遺産条約が採択された1972年に、田中角栄の「日本列島改造論」がドンピシャ発表)を信じて疑わなかった私たちが、開発よりも自然環境や伝統文化に目を向けるようになる転換点だったのかもしれない。ただこの時、世界遺産の知名度などゼロに等しい。

 それが、人気が出始めて価値が認められると、登録は郷土の“誇り”であり、世界遺産ツアーを旅行の目玉にした「町おこし」が目論まれるようになる。わが町もぜひ登録を……と名のりを挙げる地域が続々と登場した。こうして増えつづけて、いま日本の世界遺産は26件(自然5、文化21)。

 良い意味でも悪い意味でも登録史を画する分岐点になったのが、島根県の「石見銀山遺跡とその文化的景観」(登録2007年、文化遺産)である。“石見以前”と“石見以後”の2つに区分してさえ構わないと思う。

 石見銀山は、日本で14番目の世界遺産である。それまでは「京都」(金閣寺・清水寺・二条城など)「白川郷」「厳島神社」「日光東照宮」「知床」と、すでに有名な納得し易い場所が選ばれていた。そこに突然、無名の石見銀山が浮上して、観光するべき箇所が少ない“遺跡”なのに登録されてしまう。これをきっかけに、日本全国津々浦々の市町村は、「わが町のお宝も選ばれるかも?」と幻想を抱いたに違いない。

 そして、この遺跡から日本の世界遺産は、一目見ただけでは理解できない“ストーリー性”を帯びてくる。さらに最も核心的なギアチェンジは、“落選”があることを世に知らしめたことだろう。石見までは、申請されればすんなり登録される13連勝中だった。最終的には、勧告をくつがえして“逆転登録”されるのだが、世界遺産には不登録があるという事実を初めて突きつけられることになった。石見以後を要約すると、以前とは違う3つのポイントが指摘できるだろう。

1:あらゆる自然・文化が「世界遺産になりうる可能性」に目覚めた
2:ストーリーを読み解かなければ、価値がわからない
3:事前審査の評価が悪くても、ロビー活動でひっくり返せると気づく

 石見銀山は、16世紀からの100年あまり年間40トンもの銀を採掘して、世界全体の産出量の1割を占めたという。ヨーロッパ人が日本を描いた最古の地図「ドラード日本図」には、石見は「銀山の王国」と記されている。ポルトガルは、これを航海の海図にして日本をめざした。大航海時代の世界経済を動かしたのは、石見の銀だったのだ。

 地元(大田市・銀山のある大森地区)はこうした歴史的意義にいち早く気づき、登録プロジェクトを開始したのは1995年。先見の明はあったものの、登録までに12年かかるという苦難の成功談になった。