平安神宮の「納曽利の舞」 写真/shalion / PIXTA(ピクスタ)
(歴史学者・倉本 一宏)
日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。
*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が発売中です。
「賢人右府」と称された
前回に藤原実資(さねすけ)の名前が出たついでに、実資のごく若い頃の記事を発見したので、ご紹介しよう。実資は周知のとおり、藤原斉敏(ただとし)の四男として天徳(てんとく)元年(九五七)に生まれた。母は藤原尹文(まさふみ/南家貞嗣[さだつぐ]流、大納言道明[みちあき]の子)の女。祖父実頼(さねより)の養子となった。円融(えんゆう)・花山(かざん)・一条(いちじょう)と三代の天皇の蔵人頭(くろうどのとう)に補されるなど、若くから有能ぶりを発揮し、永祚(えいそ)元年(九八九)に参議、長徳(ちょうとく)元年(九九五)に権中納言、長徳二年(九九六)に中納言、長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)に権大納言兼右大将、寛弘(かんこう)六年(一〇〇九)に大納言と進んだ。
小野宮流の継承者として朝廷儀式や政務に精通し、その博学と見識は藤原道長(みちなが)にも一目置かれた。治安(じあん)元年(一〇二一)、ついに六十五歳で右大臣に上り、以後、大臣在任二十六年に及んだ。関白藤原頼通(よりみち)の信任を受け、「賢人右府」と称された。永承(えいしょう)元年(一〇四六)、九十歳で死去した。摂関期最大にして最高の史料である『小右記(しょうゆうき)』の記主としても知られる。
若い頃から儀式や政務の権威として、貴族社会で尊敬(と畏怖)を集めていた実資を見ていると、こんな人にも幼い時期があったのかと思えてくるが、『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』の康保(こうほう)三年(九六六)十月七日条(『西宮記(さいきゅうき)』『扶桑略記(ふそうりゃくき)』『体源抄(たいげんしょう)』による)を読んでいたら、数え年十歳の実資を発見した。おそらくこれが、史料上の実資の初見ということになるのであろう。
この日は村上天皇が公卿や殿上人(有名な源博雅[ひろまさ]も参加している)の奏楽を覧た記事が、訓読文にして一二四二字も記録されている。天皇がこんな長い日記を記録するというのも、世界で日本だけの現象であるが、詳細は省略するとして、左大臣(藤原実頼[さねより])の箏、右大臣(源高明[たかあきら])の琵琶をはじめとして、琴笙・横笛・大篳篥・小篳篥・銅鉢子・鞨鼓・楷鼓・拍子・太鼓・鉦鼓といった楽器の演奏や、唱歌が行なわれた。
これは専門の楽人だけではなく、大臣をはじめとする貴族も参加したものであるが、平安貴族というのは、政務や儀式に詳しくなければならないのみならず、漢詩や和歌、そして音楽もできないといけないということで、さぞや大変だったのだろうなあと、感動するとともに同情してしまう。しかも当時は学校というものがないから、自邸に専門家を呼んで練習するしかないのであった。いったい現在の政治家諸兄で、いきなり即興でバイオリンやピアノを演奏できる方がどれほどおられるであろうか。
それはさておき、この日は大オーケストラの天覧演奏といった趣きの遊興で、さぞや盛り上がったことだろうと、ひそかに想像している。演奏の後、数々の舞が舞われたのだが、これも専門の舞人のみによるものではなく、主に殿上人によるものであった。能書として有名な藤原佐理(すけまさ)や、後に摂関や大臣となる藤原兼家(かねいえ)・藤原兼通(かねみち)・藤原為光(ためみつ)なども、この時、万歳楽・延喜楽・賀殿・散手・破陣楽・帰徳隻・太平楽・酣酔楽・胡飲酒・羅陵王・青海波・納蘇利といった舞を舞っているのである。
驚くべきことに、村上天皇自身も、
自ら延喜楽を奏していた間に、時々、小雨が降って来た。そこで仁寿殿の階隠の下に於いて、この急を舞った。
と記録しているように、延喜楽を舞った。まさに君臣和楽といった観がある。「貴族たちが交わり舞い、視聴した者は、感を催した」と、村上天皇は記録している。
実資が登場したのは、この後である。
次いで納蘇利〈小舎人(藤原)実資、天冠と舞衣を着した。〉。舞が終わって、朕(村上天皇)は実資を床子に召し、袙衣を脱いで、これを下賜した。左大臣は欣感に堪えず、起って舞った。前例では、御衣を給わった者が拝舞する。今夜は拝さなかった。幼少の間であるので、舞の装束では拝礼を行ない難いのか。
小舎人というから、蔵人所に属して殿上の雑仕に使われた殿上童を務めていた数え十歳の実資が、天冠と舞衣を着して納蘇利(舞人二人が裲襠装束に竜をかたどった仮面をつけ、銀色のばちを持って舞う舞)を舞い、終わって、村上天皇に床子に召され、袙衣を脱いで下賜されたのである。賢い実資は、子供ながらにこの栄誉を実感したことであろう。
本来ならば、天皇の御衣を給わった者が御礼の拝舞を行なうのであったが、実資は幼少故にこれを行なわなかった。村上天皇は、「幼少であるので、舞の装束のままでは拝礼を行なうことは難しいのか」と記録し、実資に理解を示している。
その代わりというか、実資の養父である左大臣の実頼が、感激に堪えずに、起って舞ったとある。嫡子の頼忠(よりただ)がいるにもかかわらず、優秀な実資をみずからの養子として、小野宮家の後継者に据えた実頼としても、実資の舞と村上天皇の優遇が、よほど嬉しかったのであろう。なお、実頼は翌年、関白に補されることになる。
とだけ書けば、実資は幼少の頃から聡明で、意外に舞も上手だったのだなあとしか思わないのであるが、実資のすごさは、満年齢で九歳の時のことを、何と三十五年の後まで覚えていて、それを日記に記録していることである。『小右記』長保三年(一〇〇一)十月七日に行なわれた東三条院(藤原詮子[せんし])の四十歳の算賀の試楽において、かつての実資と同じく納蘇利を舞った左大臣藤原道長の嫡男である頼通(奇しくもかつての実資と同じ十歳)に対して、右大臣藤原顕光(あきみつ)が、一条天皇の御衣を引き取って頼通に下給したのである。
実資はこの軽率な行為に対して、三十五年前の自分の場合を引き合いに出して、次のように非難している。
康保三年の故事を思うと、主上(村上天皇)は独り単の御衣を脱いで私に下給した。ところが今日は、錦の御衣一襲を下給した。頗る軽々しいようなものである。右丞相(顕光)は故実を知らないのか。
いったい四十五歳にもなった人が、十歳の時に経験したことを思い出して、眼前に起こった違例を非難することができるであろうか。私は常々、歴史上の人物として実資をもっとも尊敬しているのであるが、やはり偉い人は幼い頃から偉いのだなあと、感動すら覚えてしまう。まさか子供の頃から日記を記録していたわけでもあるまいし。
なお、この後、道長は次のような行動を取り、実資から非難されている。
左大臣は座を起ち、長橋の方から下り〈息童(頼通)に添って下り□。〉、御前に進んで拝舞した。終わって、躍踊して云ったことには、「天長地久」と。その様子は軽々しかった。
かつての実資の養父である実頼と比較しているのかもしれない。本来ならば道長の属する九条流よりも、実頼を祖とする小野宮流の方が摂関家の嫡流であったことを過剰に意識する実資ならではである。
この後、実資は平親信(ちかのぶ)の記録した『親信卿記(ちかのぶきょうき)』に四回ほど登場する。天禄三年(九七二)四月十五日条では、賀茂祭の後朝の垣下(正客の相伴の役)として、十六歳の実資の名が列挙されている。
天延二年(九七四)八月十七日条では、御読経の堂童子(寺院で雑役を務める童形の下部)として、十八歳の実資の名が、藤原道隆(みちたか)たちと共に同じ天延二年の十一月一日条では、旬政で番奏を行なった者として、「左近少将道隆、右近少将実資」と、これも道隆と並んで列挙されている。
これも同じ天延二年の十一月二十二日条では、御馬御覧という儀式が行なわれた際、試楽が行なわれたのだが、実資は一舞を舞っている。なお、その際、修理大夫(源)惟正(これまさ)が円融天皇の御前に伺候していた。この惟正の女こそ、実資が十七歳の天延元年(九七三)に最初に結婚した女性である。惟正も若い婿の舞を、目を細めて眺めていたことであろう。
この後は実資は、九九〇年代になるまで、古記録に登場しない。この頃から、実資自身も『小右記』を記録していたはずである。






