宇佐神宮 写真/倉本 一宏(以下同)
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(歴史学者・倉本 一宏)

日本の正史である六国史に載せられた個人の伝記「薨卒伝(こうそつでん)」。前回の連載「平安貴族列伝」では、そこから興味深い人物を取り上げ、平安京に生きた面白い人々の実像に迫りました。この連載「摂関期官人列伝」では、多くの古記録のなかから、中下級官人や「下人」に焦点を当て、知られざる生涯を紹介します。

*前回の連載「平安貴族列伝」(『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』所載分​)に書き下ろし2篇を加えた書籍『続 平安貴族列伝』が発売中です。

南家出身の中では出世していた懐忠

 お次は藤原懐忠(かねただ)という公卿が出世する前の数々のエピソードを紹介しよう。『村上天皇御記(むらかみてんのうぎょき)』の康保(こうほう)二年(九六五)は、九州の宇佐八幡宮に派遣される宇佐使について記録している。

 七月二日条(『西宮記(さいきゅうき)』による)には、

(源)延光(のぶみつ)朝臣を介して、左近少将(藤原)懐忠を宇佐使として遣わす事を命じさせた。

とあり、懐忠が宇佐使に決まったことが記されている。現在なら、大分県の宇佐八幡宮に行くのは、それほど困難ではないが(それでも遠かったけど)、当時は陸路にしても海路にしても、なかなか大変な行程であった。ただし、それなりのうま味もあって、宇佐使になることを望む貴族も多かったのである。

 この懐忠というのは、藤原南家の出身、参議菅根(すがね)の孫で、大納言元方(もとかた)の九男(母はこれも南家の大納言藤原道明[みちあき]の女)である。承平(じょうへい)五年(九三五)生まれなので、この康保二年には三十一歳であった。官は左近衛少将であって、南家の貴族としては、そこそこ出世コースに乗っていたものと思われる。

 これは元方の女である祐姫(すけひめ)が村上天皇の更衣となって、天暦(てんりゃく)四年(九五〇)に第一皇子の広平(ひろひら)親王を産んでいることと関係するのかもしれない。なお、同じ年に生まれた第二皇子憲平(のりひら)親王(母は藤原師輔[もろすけ]の女の安子[あんし])が東宮に立ち、外戚になる望みを絶たれた元方が怨霊になったという説話が作られたが、これは憲平親王(後の冷泉[れいぜい]天皇)が病がち(けっして狂気ではない)であったことを、元方の怨霊のせいにするために、後世に創作されたものである。同時代の信頼できる史料には、元方の怨霊はまったく出てこないし、懐忠たち元方の子供がそれで不利になった形跡も見られないのである。

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 この懐忠、無事に宇佐使を務めていればよかったのであるが、何を思ってのことか、進発することができないと言い出してきた。同じ年の九月四日条(『西宮記』による)には、

宇佐使懐忠は、患うところが有って、進発することができないとのことを申させてきた。午剋、御祓が行なわれた。宇佐使の延引によるものである。

と村上天皇に記録されている。何を患ったのかはわからないが、進発するのを渋ったのである。朝廷ではこれによって祓が行なわれたというから、随分と迷惑をかけたものである。

 なお、宇佐使はこの月の十五日に無事に発遣された。この時も宇佐使は懐忠である。もう病も治ったのであろう。余談であるが、この時の宇佐使については、後の長元(ちょうげん)五年(一〇三二)に宇佐使を発遣した際に、香椎廟にも宣命を奉献するのか否かで、発遣の上卿を務めた藤原斉信(ただのぶ)と藤原実資(さねすけ)との間に議論が起こった。宣命は必要ないと主張する斉信に対し、実資は、かつて二度、この上卿を務めた時には、二度とも二枚の宣命が有ったこと、また詳しく康保二年九月二日と十五日の『村上天皇御記』に見えることを根拠に、斉信を論破した(『小右記(しょうゆうき)』による)。

 さて、宇佐使は何とか務めた懐忠であったが、翌康保三年(九六六)に、また問題を起こした。『村上天皇御記』八月二十七日条(『西宮記』『小右記』『権記(ごんき)』による)には、有名な「元三大師」良源(りょうげん)を天台座主に任じたことを、比叡山に登ってそれを宣下する宣命使に任じられたことが見える。

権律師良源を座主に任じられる時〈宣命使は少納言(藤原)懐忠。〉、山(延暦寺)の阿闍梨に改めて補した。

 現在なら京都側からも大津側からも、またドライブウェイでも比較的簡単に登れる比叡山であるが、当時は都からは、雲母坂と呼ばれる急峻な山道を登らなければならなかった。私も途中まで登ってみたことがあるが、とても山頂までは登りきれなかった。当時の貴族や僧、院政期の法皇などは、さぞかし大変だったことであろう。

雲母坂

 などと心配していると、翌八月二十八日条(『西宮記』による)には、

懐忠が申させて云ったことには、「私の力では、比叡山に登ることはできません。馬に騎って参り候□□□ 」ということだ。堪えるに随って登るよう命じた。

と記録されていて、「自分は比叡山に登ることはできないので、馬に騎って・・・(字が欠けているが、馬に騎って登りたい、または馬をいただきたい、とでも言ったのであろう)」と要求している。後に長和(ちょうわ)元年(一〇一二)に騎馬で登った藤原道長(みちなが)が、僧から放言や投石を受けたように、比叡山は騎馬での登山を禁止していたのである。これに対し村上天皇は、何とかして登ってこいと命じている。

 まったくなあという感じであるが、『天台座主記(てんだいざすき)』という書物によると、

八月二十七日、・・・勅使は少納言懐忠。同二十九日、到来した。

とあり、二十九日に何とか比叡山に登って使命を果たしたようである。天皇の勅許があったというので、馬に騎って登ったのであろう。あの山道を思い出すと、馬に騎って登ったら、かえって危ないと思うのだが。