清河八郎像 写真/Yamaguchi/フォトライブラリー
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(町田 明広:歴史学者)

清河八郎の歴史的意義

 2025年6月、筆者は初めて、清河八郎記念館(山形県東田川郡庄内町清川字上川原)を訪ねることができた。この記念館は、清河没後100年忌を記念して昭和37年(1962)に建てられ、多数の清河の遺品を保管・展示する資料館である。

 また、近隣の歓喜寺において、清河と妻・お蓮の墓参をすることもできた。境内は空気が澄み切り、えも言われぬような、荘厳な雰囲気に包まれていた。清河の存在を身近に感じ取ることが出来た。

 清河八郎(1830~63)は尊王志士の魁と言われ続けてきたが、実は清河自身が尊王志士の誕生に大きな関わりを果たしたことは、あまり知られていない。筆者は、清河の重要な歴史的意義の一つとして、尊王志士の誕生に寄与したことだと確信している。

 今回は、清河八郎がいかにして尊王志士を誕生させたのか、そして寺田屋事件(文久2年4月23日、1862)とはどのような関わりがあったのか、主として寺田屋事件までの清河の動向を5回にわたって述べてみたい。

清河八郎の生涯とは

 最初に、清河八郎の一般的に知られる生涯について、概観しておこう。そもそも、清河八郎の姓は生地清川にちなむもので、「清川」と書く場合もある。庄内藩郷士斎藤治兵衛豪寿(じへえひでとし)の長男で、幼名元司、のち正明と称した。幼いころから学問を好み、6歳で『論語』を素読し、10代半ばには「学問で身を立てよう」と志を固めていた。

 弘化3年(1846)、16歳の時に藤本鉄石が清川村を訪れた。藤本は、天誅組総裁として大和で挙兵したが、敗れて戦死したことで知られ、画才と軍略を兼ねた文武の才人として名高い。藤本との出会いは、その後の清河の人生にとって、多大な影響を与えるほどの大事件であったのだ。

藤本津之助

 弘化4年(1847)、17歳で江戸に出て、東条一堂の塾に入門して儒学・漢学を中心に学び、嘉永元年(1848)には関西、四国、九州へ旅行したことを契機として、熱烈な攘夷論者となり、真木和泉、平野国臣らと親交を結んだ。嘉永4年(1851)、21歳で北辰一刀流の千葉周作に入門して剣を学んだ。

真木和泉

 文久3年(1863)2月、幕府の浪士組(後の新選組)編成に応じて上洛し、その中心人物であったが、幕府に反して尊王攘夷(即時攘夷)を主張したのだ。さらに、芹沢鴨・近藤勇・土方歳三らと対立し江戸に戻った。

 江戸に帰ってから、横浜外国人居留地の焼打ち準備を進めていたが、同年4月13日に、江戸麻布一の橋で幕府見廻組佐々木只三郎らに暗殺された。享年34。著書に『西遊草』がある。