西周著『百一新論』巻之上 出典/国立国会図書館デジタルコレクション
目次

(町田 明広:歴史学者)

開成所教授から将軍の側近へ

 慶応元年(1865)12月、西周はオランダ留学から帰国した。翌2年1月、西は幕府の洋学研究教育機関である開成所の教授手代となり、3月には、教授に昇任して直参(将軍直属の家臣)の身分を与えられた(100俵20人扶持)。さらに8月に至り、国際法『万国公法』の訳述を行なった。

 西の経歴・知識は、すぐに国家の最高指導者の目に留まる。同年9月、西は第15代将軍徳川慶喜に直接招かれたのだ。しかし、京都で将軍付きとなったものの、当初これと言った沙汰はなく、この間、清水家当主徳川昭武に招かれ、ヨーロッパの風俗や航路について説明した。

徳川慶喜

 慶応3年(1867)2月、西は更雀寺(四条大宮西入)の私塾を受継いだ。会津・桑名・津・福井・松山らの藩士や新選組隊士など、立場を問わず新しい知識を求める者たちが殺到し、門下生は総勢500人に達したという。この時の講義録が、後の彼の主著『百一新論』の基礎となった。西周の思想は、幕末の政治の中枢から現場まで、広範な影響力を持ち始めたのだ。

 同年3月、ようやく慶喜から沙汰があったが、慶喜に直接フランス語を教える任務であった。慶喜の語学力は相当高かったらしいが、政局の混乱から、語学学習は長続きしなかった。なお、同月に西は外交文書の翻訳業務を行なっている。その後、5月に職階は奥詰並に昇格した。