長澤鼎
(町田 明広:歴史学者)
アメリカで評価されるサムライ
昭和58年(1983)11月、日米間の貿易摩擦が最大の懸案事項となり、両国関係が戦後最悪なレベルに至っていた最中、アメリカ合衆国第40代大統領ロナルド・レーガンが訪日を果たした。ジョンソン、フォード、カーターに次ぐ、来日した4人目のアメリカ合衆国大統領であった。
筆者は当時大学2年生であったが、迎賓館に向かうレーガン一行の車列によって、道路が一部封鎖されてしまい、なんと授業に間に合わない事態を経験した。それだけに、当時の記憶は意外と鮮明である。
レーガンは、滞在中に日本の国会で演説を行った。その一節で、「日本人は、太平洋を越えてアメリカ西海岸にやって来た。そして、労苦を惜しまず働き、多くの奇蹟をもたらしたことを、私はカリフォルニア人として目の当たりにしている。なかでも、グレープ・キングと称えられたカナエ・ナガサワ(長澤鼎)は、われわれの生活に豊かな潤いを与えてくれた。太平洋を挟んだ米日両国は、サムライから実業家に転身したナガサワの偉大な業績に負うところが大である」と語ったのだ。
レーガンは演説の中で、日米間の長い友好関係を踏まえた上で、両国が協調する必要性を述べ、3人の日本人に言及した。松尾芭蕉、福沢諭吉、そして、長澤鼎である。演説の草稿起草者の1人は、当時、駐日米国大使館の広報・文化交流局次長のジェリー・インマンであった。
長澤鼎の再発見
ジェリー・インマンは、ナガサワの事業がカリフォルニアの近代化に大きく貢献した歴史を身近に知っており、日米交流の上で欠くことのできない「重要な人物」を日本国民に知ってもらいたかったと発言している。アメリカ人によって、長澤鼎は日本人の意識の中で里帰りしたのだ。まさに、長澤鼎の再発見である。
当時の日本において、長澤は無名といっても過言ではなく、現在もそこまで認知されていないカナエ・ナガサワ=長澤鼎は、薩摩スチューデントの一員であった。その薩摩スチューデント160年にちなみ、今回は長澤を3回にわたって取り上げて、長澤の経歴をたどりながら、彼がいかにして、アメリカで評価されるサムライとなったのか、その実相に迫ってみたい。

