(町田 明広:歴史学者)
幕末維新史の偉人・勝海舟の特異さ
幕末維新史の偉人として語られる武人としての人物は、その多くが薩摩藩や長州藩などの西国諸藩の藩士たちである。例えば、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、板垣退助、大隈重信らが挙げられよう。彼らは薩長土肥と言われる薩摩・長州・土佐・肥前の4藩の代表的人物であり、江戸幕府を倒して明治政府を樹立した、いわゆる勝者側の人物群である。
そのような中で、この時期を通して活躍した幕府側の人物で、唯一と言っても過言でない偉人として、勝海舟(1823~1899)を挙げたい。これについては、多くの読者にも納得いただけるのではなかろうか。ところで、なぜ、勝海舟だけが負け組の中で、唯一の勝ち組になれたのか。その理由は、様々であろうが、1つには、勝が薩摩藩など西国雄藩にもパイプを持っており、維新後も新政府の高官になるなど、活躍を継続していることによろう。
さらに、勝は日本の近代海軍に発展する基礎作りをしており、かつ江戸無血開城の立役者として、記憶されている点を見逃すことは出来ない。今回は、近代海軍の祖とも言える勝にスポットを当てて、その海軍構想はいかなるものだったのか、その結実となった神戸における海軍操練所と勝塾の実態について、そのキーマンである姉小路公知・坂本龍馬・横井小楠などにも言及しながら、3回にわたって紐解いてみたい。