勝海舟の海軍構想

 勝海舟は、安政の改革を推進した老中筆頭の阿部正弘によって登用され、上述したように、長崎海軍伝習所の教官などを経て、万延元年(1860)には咸臨丸で渡米した経験を持っている。長崎時代には、開明派の代表であり、後に海防掛や外国奉行となる岩瀬忠震の知遇も得ており、これ以降、岩瀬は勝を「麟太」と親しく呼んでいる。これは、勝の通称名である麟太郎を略した呼んだもので、両者の親密性がうかがえよう。

岩瀬忠震

 勝がその岩瀬に感化されたことは疑いなく、岩瀬の開明的な思想の系譜を継承している。しかも、岩瀬は阿部正弘のみならず、その後の筆頭老中の堀田正睦のブレーンでもあり、勝が抜擢された背後に、岩瀬の存在が見え隠れしている。しかし、明治期以降、勝はなぜか恩人の岩瀬に全く言及していない。勝に何か都合が悪いことでもあったのだろうか、判然としていないが、不可解な事実である。

 さて、勝の関心は摂海防御と海軍建設にあり、文久3年(1863)5月18日、越前藩士の中根雪江に「朝幕とも表向の命を降されたれハ、速すみやかに建営に着手すへし、拙者ハ此節別に尽力すへき途なき故、神戸に於て大に海軍を興おこし国家百年の基業を創はじむるの決心なり」(『続再夢紀事』5)と、海軍構想を語っている。

 つまり、朝廷と幕府から海軍の設置を命じてもらえれば、速やかに着手したい。勝自身は現在取り立ててするべきことがないので、神戸において大いに海軍を興し、国家100年の計を立てたい、というのが勝の宿願である。この後に設置されることになる、神戸海軍操練所を単なる幕府の機関とせず、朝廷と幕府双方による、挙国一致的な海軍の隆盛を目指すものにしたかったのだ。

 次回は、海軍建設にあたり朝廷内のよき理解者となる姉小路公知との関係について、詳しく述べてみたい。