1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図

(町田 明広:歴史学者)

鎖国から派生した攘夷

 幕末と言えば、尊王志士が掲げた「尊王攘夷」というスローガンを、連想される読者が多いのではなかろうか。これまで、尊王攘夷運動こそ、倒幕をもたらして明治新国家を建設できた原動力であったと理解されている。一方で、攘夷の定義となると、意外と難しいのではなかろうか。

 攘夷を定義づけする前に、重要な関連性がある鎖国とは何か、そこから考えてみたい。鎖国とは、17世紀前半にできあがった対外政略であったが、具体的には、日本人の海外渡航・帰国を厳禁し、外国船を追い払うことを骨子としており、キリスト教を徹底的に排除することであった。

 しかし、鎖国完成時の日本人にとって、これらの行為は幕末人が唱えた「攘夷」とは、まだ異質なものであった。つまり、鎖国が完成するまで、日本は世界と通商していたが、鎖国はこれを廃止した対外方針の変更に過ぎず、日本を神国として捉え、外国人を忌み嫌い排除の対象とする攘夷という考え方には至っていない。

 この鎖国という新しい対外政略は、外国船を追い払うことを肯定しており、次第に外国を夷狄(いてき)と捉える排外思想を生み出した。国学や後期水戸学を経て、鎖国は攘夷へと深化して、幕末日本に大きな影響を与えることになるのだ。

 攘夷というのは、単なる外国船の打ち払いの行為そのものを指すのではなく、政治的な対外思想を伴うものである。日本人に宿る、東アジア的華夷思想に起因する華夷思想に加え、北方におけるロシアの脅威が直接の引き鉄となって、国防・海防意識が一気に醸成された。その結晶が、「攘夷」であったのだ。

 今回は、鎖国完成以降、江戸時代を通じて醸成されていった攘夷について、その定義や形成経緯を十分に検討した上で、幕末期に実行に移された攘夷の実態を明らかにしたい。

 具体的には、幕府はどのようにして、攘夷実行に追い込まれたのか、また、イメージの通り、攘夷実行は長州藩の専売特許であったのか、あるいはその他の藩も実行していたのか、さらには、朝廷・幕府の攘夷実行に関する時期や方策の違いは、どのような影響を西国諸藩に与えたのか、今回は4回にわたって、様々な側面から攘夷の実相に迫って見よう。