1853年7月14日、ペリー提督一行初上陸の図

(町田 明広:歴史学者)

「幕末維新史探訪2023」のスタート

 令和5年(2023)がスタートした。今年は幕末維新史の中でも大激動の年であった、文久3年(1863)からちょうど160年という節目に当たる。160年前、新選組が誕生し、14代将軍徳川家茂が3代将軍家光以来、229年ぶりの上洛を果たし、下関戦争、朔平門外の変、薩英戦争、朝陽丸事件、八月十八日政変と大事件が立て続けに起こった。

 ところで、JBpressでの連載も足かけ3年目に入ったが、昨年の「幕末維新人物伝2022」シリーズに続き、今回からは「幕末維新史探訪2023」をスタートさせたい。本シリーズでは、先ほど紹介した今から160年前、文久3年の様々な事件も取り上げてみたい。

 ところで、幕末のスタートをどこに置くかは様々な意見が存在するが、一般的には嘉永6年(1853)のペリー来航とされている。明治元年は1868年であるので、この間わずか15年である。この短期間におびただしい人物が現れ、また大事件が続発しており、そのため分かり難いと敬遠される向きもある。また、特定の人物や集団にはめっぽう関心があり詳しいが、実は全体像はつかみ切れていないケースもあるのではなかろうか。

 新シリーズのスタートにあたり、幕末維新史は絶大な人気を誇る時代でありながら、一方では分かり難いとされて、敬遠されることもあるのは何故なのか、その謎の解明を3回にわたって試みたい。今回は「尊王攘夷」vs.「公武合体」は幕末の政争を言い当てているのか、述べてみたい。

「尊王攘夷」とは

「尊王攘夷」とは、そもそも、「尊王」と「攘夷」が合体した歴史用語である。「尊王」とは、江戸時代の身分制度において、その最頂点に位置する天皇の伝統的権威の尊重を主張する思想である。「攘夷」とは、日本を道徳文化の優れた中華国家として尊び、万世一系の皇室の存在を絶対視することから外国を夷狄とさげすみ、外国船を打ち払うという対外政略である。

「尊王攘夷」とは、幕藩体制の矛盾の激化と対外危機に対処するために、天皇の絶対化と排外主義が結合したもので、幕府による政治改革と為政者(武士層)の一致団結による外国との対峙を求める政治運動という性格を合わせ持った。その起源は天保期(1830~1844)、水戸藩主徳川斉昭の治世に「水戸学の三傑」(藤田幽谷・藤田東湖・会沢正志斎)が提唱した後期水戸学にある。

藤田東湖

 後期水戸学は、内憂外患の迫る危機を克服する方策として「尊王攘夷」論を強調し、全国の武士層に多大な思想的影響を与え、水戸が聖地となった。将軍家が先頭に立って天皇を尊崇すれば、大名や藩士層も将軍家を遵奉して服すると説き、攘夷を対外政略とすることで武士の志気を鼓舞することを企図した。

 なお、「尊王攘夷」は藤田東湖の『弘道館記述義』(弘化3年、1846年、初稿本脱稿)に「尊王攘夷者、実志士仁人尽忠報国之大義也」と記されたことを始めとする。これ以降、あっという間に全国的に流布したが、例えば、吉田松陰書簡(松浦松洞宛、安政5年〈1858〉9月9日)には、「尊皇(王)攘夷の素志を相挫き候様於有之は、甚吾等本意に叶不申のみならず」とある。「尊王攘夷」は、時代を象徴するスローガンであったのだ。