松平容保

(町田 明広:歴史学者)

 幕末の悲劇の一つに、会津藩・松平容保が挙げられることが多い。最後の最後まで幕府に忠義を尽くし、挙句の果てには新政府軍と対決して、一藩存亡の危機に瀕する大敗北を喫する。まさに、悲劇中の悲劇と言っても過言ではなかろう。

 今回は、その運命を決定づけた会津藩主の松平容保(1835~93)の京都守護職時代、その中でも長州藩との関係が抜き差しならなくなった元治期(1864~65)に焦点をあててみたい。そして、3回の連載によって、悲劇の芽がどのように派生したのか、その真実に迫っていこう。

戦国から江戸初期にかけての会津地方

 最初に、会津藩の歴史を簡単に振り返っておこう。戦国時代の会津地方は、黒川(会津若松)を本拠とする芦名氏の支配下にあった。その後、伊達政宗の領有時代を経て、天正18年(1590)、豊臣秀吉の奥州仕置によって、蒲生氏郷の所領となった(42万石、後に92万石)。氏郷は若松城の築城と城下町および領内交通網の整備などを行い、さらに、上方から商人を呼び寄せるなど、領国経営に功績を残した名君として知られる。

蒲生氏郷像

 氏郷没後、越後から上杉景勝が入封(120万石)したものの、関ヶ原で西軍に与したため、慶長6年(1601)に米沢30万石に減封となった。そこで、宇都宮から蒲生氏が加増(60万石)の上で復帰したが、寛永4年(1627)に嗣子がなく断絶、加藤嘉明が伊予松山より入封(40万石)したのだ。

加藤嘉明像

 しかし、これも寛永20年(1643)にお家騒動(会津騒動)の勃発によって、その所領は没収となった。実に、目まぐるしい動きである。同年の内に、今度は高遠および山形藩主を経た2代将軍徳川秀忠の庶子、保科正之が23万石で入封した。ようやく、この後、会津藩は落ち着くことになる。