佐久間象山像

(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(8)「佐久間象山暗殺の真相①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/70258

元治元年春の中央政局

 文久4年(2月20日に元治に改元、1864)1月に誕生した朝政参与体制(いわゆる参与会議)は、一橋慶喜と島津久光の対立が主因となってあっけなく瓦解し、4月になると朝政参与諸侯を始めとする在京藩主は、ほぼ国許に戻ってしまった。主役の1人であった久光も、4月18日に退京して鹿児島に帰って行った。

 その僅か2日後の4月20日、これを契機に朝廷・孝明天皇は将軍徳川家茂に対して、大政委任を沙汰した。あわせて、横浜鎖港・長州藩処分・海防厳修・物価低落・人心安定に関し、時機に応じた適切な措置を求めたのだ。29日、家茂は参内して職掌に勉励することを奉答し、あわせて皇室崇尊十八カ条を奏聞して、孝明天皇からその裁可を得た。

 ここに、幕府が念願してきた完全な大政委任を国是とすることが叶った。そして、孝明天皇・中川宮・二条斉敬の信任を得ていた禁裏守衛総督・摂海防禦指揮の一橋慶喜、京都守護職の松平容保(会津藩主)に、京都所司代の松平定敬(桑名藩主)を加えた、一会桑勢力と呼ばれた政治権力の基礎が派生した。

 この状況に危機感を覚えたのが有栖川宮幟仁・熾仁親王父子を中心とする、鷹司輔煕・大炊御門家信・中山忠能・橋本実麗といった反体制派の廷臣であり、幕府への大政委任を否定し、通商条約の完全破棄を求めた。そこに長州藩が付け入り、これら廷臣をそそのかした。

 さらに、長州藩は自藩に好意的である鳥取・岡山・加賀といった諸藩の周旋役などとも連携して、藩主毛利慶親・定広父子の寛典を強く求め続け、禁門の変に至る。その過程で、様々な流言が飛び交った。前置きが長くなったが、以下順にそうした流言のいくつかを見ていこう。