(町田 明広:歴史学者)
◉幕末維新人物伝2022(4)「島津久光と幕末政治①」(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/69652)
島津斉彬を介した久光と西郷
島津久光を語る際に、避けて通れないのが西郷隆盛との関係であろう。最初に、両者の複雑多岐にわたる関係性を紐解いておきたい。
西郷も久光と同様に、島津斉彬から高く評価され、薫陶を受けた。斉彬は、名もない下級官吏の一人に過ぎない西郷を抜擢し、側近に加えて国事に奔走させたのだ。そのおかげで、西郷は名士となり、尊王志士の間で重きをなすまでに至った。斉彬は、一橋家の慶喜と紀州藩の慶福(家茂)との間で勃発した、14代将軍の座をめぐる将軍継嗣問題でも西郷を重用した。
斉彬が参勤交代の都合で、鹿児島に居て身動きが取れなくなった際に、西郷を上方や江戸に派遣して、分身のように周旋活動を行わせたのだ。こうした経緯は、政治家・西郷の基礎となり、斉彬の遺志を継ぐとの使命感によって、その後の西郷の人生は形成されたと言えよう。
久光と西郷は斉彬を介して、類似性を確認できる。両者はともに斉彬に見出され、政治家として育成され、国事周旋を行うための保証を与えられ、一方では斉彬のブレーンとして、国政に関わる意見を具申した。そして何より、斉彬の遺志を継承する正統性を持っているとの自覚が強烈に強く、生涯を通じて斉彬に畏敬の念を持ち、敬慕し続け、遺志の実現にまい進した。その意味では、久光と西郷は同志であり、斉彬の前では君臣関係はなく、平等であったと言えるのではないか。
奄美大島から帰参した西郷は、斉彬と比較して久光を「地五郎」(田舎者)と言い放つなど、不遜極まりない態度を示した。その後、沖永良部島からの帰参後の西郷は、一転して久光に従順であったが、その関係は必ずしも円滑なものではなかった。久光は西郷の独断専行を常に警戒しながらも、家老小松帯刀が一人で担いきれない、重要な中央政局での政務を西郷にも大久保利通とともに分掌させた。
ところで、久光は相性が極めて悪く、監視し続けた西郷を、なぜ使い続けることができたのだろうか。もちろん、久光の度量の大きさによることは自明であるが、加えて西郷の圧倒的なパフォーマンスに、久光も一目置かざるを得なかったことが大きく作用したであろう。とは言え、理由の一つとして、斉彬の遺志を継ぐ同志との思いが、どこかにあったのかも知れない。