(町田 明広:歴史学者)

幕末維新人物伝2022(1)「坂本龍馬は薩摩藩士か?①」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68946
幕末維新人物伝2022(2)「坂本龍馬は薩摩藩士か?②」https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68948

大石団蔵(高見弥一)の事例

 坂本龍馬を薩摩藩士と考えるにあたり、同じような事例が龍馬前後に生じていたのか、その実例を示すことは、有効な傍証となり得ると考える。まずは、大石団蔵を例にして検討してみよう。

 大石は文久2年(1862年)4月8日、那須信吾・安岡嘉助とともに高知城下で土佐藩参政・吉田東洋を暗殺し、そのまま脱藩して下関経由で京都の長州藩邸に久坂玄瑞を頼り、保護された。しかし、土佐藩吏に追われたため、長州藩からの依頼を受けた薩摩藩の吉井友実・海江田信義の庇護下に入り、薩摩藩邸に移動した。後に、やはり薩摩藩士の奈良原繁を頼り、島津家に帰属することになったのだ。

 大石は、変名である高見弥一をそのまま名乗り、小姓与として正式に薩摩藩士として仕官を許された。奇跡的に、ご子孫にその辞令が伝わっており、それによると「高見弥一 右此節被召抱御小姓与江被入置候、右御格之通可申渡候 文久三亥十二月 喜入摂津」(山田尚二「薩藩海外留学生高見弥一について」)とある。龍馬と同じ土佐藩脱藩浪士である大石は、紛れもなく薩摩藩士になっており、龍馬もそうあってもおかしくない。

鹿児島中央駅前にある「若き薩摩の群像」には堀孝之、高見弥一の像も含まれている。写真/アフロ

 その後、大石は慶応元年(1865年)に薩摩スチューデントとして、五代友厚・寺島宗則らとともにロンドンに渡航した。薩摩藩士の中でも、大いに嘱望された人材として認められるまでに至っていた。同じく、堀孝之も通訳として薩摩スチューデントの一員となっているが、御小姓与で召し抱えられており、御船奉行見習通弁として渡欧している。

 大石も堀も正式な藩士として、薩摩スチューデントのメンバーとなっていることは、極めて重い事実である。なお、近藤長次郎も薩摩藩の第2次留学生候補となっているが、彼らとの関連でも注目に値する。