飛騨守惟久筆「後三年合戦絵詞」(東京国立博物館所蔵) 出典:Colbase 馬上のまま突進しながら前方のてきに弓矢を放つ源義家軍の武士。勇ましく騎射する騎馬武者とこれに立ち向かう徒歩の弓兵が描かれている。

(乃至 政彦:歴史家)

 一般的に儀礼の行列から発展したと考えられている「大名行列」。この行列の編成様式に注目した歴史家・乃至政彦氏は、その起源は上杉謙信が武田信玄に大勝した「川中島合戦」の軍隊配置にあったと解く。平安時代の天皇の行幸から、織田信長、明智光秀、伊達政宗ら戦国時代の陣立書、徳川時代の大名行列や参勤交代の行列まで、「武士の行列」を大解剖した乃至氏の書籍「戦う大名行列」の発売(電子&web版のみ)を記念し、序章を3回に分けて公開する(JBpress)。

◉軍隊行進だった「大名行列」(1)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68907
◉軍隊行進だった「大名行列」(2)(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/68912

中世の「領主別編成」と近世の「兵科別編成」

 ところで戦国時代の軍隊にはひとつのイノベーションがある。それは「領主別編成」から「兵科別編成」への移⾏である。

 中世の武⼠による合戦は、私的な中⼩規模の領主が寄り集まり、これらが連合して、敵勢に乱闘を仕掛けるといった戦闘が主流であった。

 諸隊はいずれも⾃分の領⼟から⾃分の軍隊を連れて、これを独⾃の判断で進退させていた。中世の合戦は、中⼩規模の武装勢⼒——それぞれ⾃分の所領を持つ 「⼀所懸命」の武⼠たちが私的な従者(郎党)を引き連れる「⼈数」——が、その場限りの主催者の側に「味⽅」として参戦する⼀過性のイベントであった。

 イベントであるから参加の判断は⾃由である。敵⽅につくことだってかまわない。そこに絶対的な主君や上官はなく、「頼りない」「⼤義がない」と思ったら、⾃⼰責任で戦場を離脱したり、最悪の場合にはその場で敵⽅に寝返ることすらあった。

 彼らは私領の私兵を連れているだけの独⽴的領主だからそれができたのである。

 領主たちは⾃分の戦いやすい武⼒編成で兵を連れていた。彼らが合戦のたびに構成を変えていたことは容易に想像されよう。従者のひとりが病気であれば、誰かを雇ってこれを⽳埋めするかもしれない。⽳埋めしないかもしれない。

 中世の合戦はどういう武装、どれだけの⼈数で参加しようともかまわない。武⼠は基本的に⾃主独⽴の存在である。誰かから「必ず⼸五⼈、旗⼆⼈、⾺上⼆騎で参陣しなければならない」などと指図される謂れはない。すべてはおのれの思うまま。

 合戦主催者の陣営に領主たちがどんな兵科でどれほどの頭数を連れてくるかは、そのときになってみないとわからないのが中世の武⼒編成だった。

 このような状況で、これら⾃由な武装勢⼒を、利害調整や信賞必罰をもってうまく束ねること(それこそ源頼朝や⾜利尊⽒のように、利害調整や信賞必罰による人身収攬に秀でた者)、それこそが名将の第1条件だった。

 これら中世の武⼒編成は、その主体が領主にあるのは疑いのないところである。それゆえこの時代の武⼒編成は、領主別編成と呼ばれている。

 それが徳川時代になると、私領を有する「領主」という存在は希薄化する。この時代、⼤名の所領は私有地ではなくなっているからである。幕府の考え次第で、転封や改易が⾔い渡されることもあった。

 その家⾂もまた、基本的には⼤名から俸禄をもらう⽴場であり、私有地を所有するわけではなかったからである。そこで武⼒編成の主流となるのが兵科であった。

 旗・⼸・鉄 炮・鑓(⻑柄)・騎⾺が定数によって揃えられた「兵科別編成」である。⼤名⾏列を構成する武装と⼈数は、⼤名の意向によってその内訳がきれいに整えられていた。

 しかし兵科別編成は徳川時代の発明ではなく、戦国時代の発明である。どうしてこのような変化が起こったのかは、中近世移⾏期の軍隊研究が進んだことで、ある程度わかってきた。

 簡単にいうと、武⼒編成のインパクトとなる特異点があったのである。

 中世と近世の狭間にあたる戦国時代に、⼤名権⼒の集中、鉄炮の伝来と浸透、歩兵の増強があり、新しい時代の軍隊と戦争を模索する者だけが勝ち残っていく。その結果、戦闘の主体が個⼈戦から組織戦へと移り変わり、軍隊の編成は領主から兵科を重視する形態へと改められていった。いいかえれば、「中世の領主別編成」から「近世の兵科別編成」である。