島津久光

(町田 明広:歴史学者)

誤解されたままの島津久光

 筆者は長年にわたって、島津久光を研究対象としているが、久光ほど誤解されている人物はいないのではないか、と思うことが多々ある。久光には、暗君のイメージが付きまとうが、これは研究の遅れからくる大きな誤解ととらえている。倒幕を成し遂げた雄藩として、薩摩藩は高く評価されながら、幕末薩摩藩の研究は、多くの読者にとって意外かも知れないが、実は遅れているのだ。

 その最大の要因は、島津家関連史料の整備・公開が遅れていたことにあるだろう。幕末薩摩藩研究の必須史料である『鹿児島県史料 忠義公史料』は1974年、『鹿児島県史料 玉里島津家史料』は1992年になって、ようやく刊行が開始された。こうした史料集がなくてはできなかった久光研究は、まだ始まったばかりである。

 例を挙げると、芳即正『島津久光と明治維新』(2002年)、佐々木克『幕末政治と薩摩藩』(2004年)、拙著『島津久光=幕末政治の焦点』(2009年)および『幕末文久期の国家政略と薩摩藩―島津久光と皇政回復』(2010年)くらいしか見当たらず、しかも、いずれも2000年以降である。

 さて、久光はこれまで、どのように理解されてきたのだろうか。国民的大作家である司馬遼太郎は、短編小説「きつね馬」の中で、久光に対する厳しく、そして冷たい見方を貫いている。しかも、その評価が世間でそのまま受入れられている嫌いがある。

 司馬は、久光を将軍の座を狙う権力欲に動かされ、身のほどもわきまえず、亡兄である島津斉彬の真似をして中央政界へ乗り出し、大久保利通によって利用されるだけ利用され、挙げ句の果てに棄てられた、一種のピエロとして描く。まさに、暗愚なバカ殿としての久光像であろう。

 しかし、事実はどうであろうか。今回は4回にわたって、幕末期の久光を描き出すことによって、本当は、久光とはどのような人物であったのか、その実相を探ってみたい。