(町田 明広:歴史学者)
渋沢の尊王精神
大河ドラマ「青天を衝け」は、次回でクライマックスを迎える。本作は過去の大河ドラマと比較して、出色の出来映えであったのではなかろうか。かく言う筆者も毎回、楽しませていただいた。大河ドラマに合わせて連載していた「渋沢栄一とゆかりの人物」も、いよいよ、本編としては最終回となる。今回は、渋沢栄一と昭和天皇の会食にスポットを当てて、その締めくくりとしたい。
渋沢は幕末時代、「尊王攘夷」を標榜し、横浜焼討ちなどの計画を立てており、筋金入りの尊王であったことは紛れもない事実である。しかし、明治維新後、官に就いていた時間が短かったこともあり、天皇との関係は必ずしも深いものとは言えなかった。
明治天皇の崩御にあたっては、大正3年(1914)12月に明治神宮奉賛創立準備委員会を組織し、その準備委員長に就くなど、明治神宮の造営に尽力した。渋沢の中には、脈々と尊王の精神が流れ続けていた証拠であろう。
天皇とは、決して縁が深いわけではなかった渋沢であったが、最晩年になって、大きな僥倖が待っていた。昭和天皇から、「単独御陪食」(1人で天皇と食事をともにすること)の召命があったのだ。