渋沢栄一 国立国会図書館蔵

(町田 明広:歴史学者)

渋沢栄一と時代を生きた人々(1)「渋沢栄一①」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521
渋沢栄一と時代を生きた人々(2)「渋沢栄一②」
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64524
渋沢栄一と時代を生きた人々(3)「渋沢栄一③
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64525

慶喜の将軍就任と渋沢の動向

 渋沢栄一は、一橋家の中で経済官僚として順調に歩み始めていたが、時勢に翻弄されることになる。慶応2年(1866)6月7日、幕府艦隊による周防大島への砲撃から第2次長州征伐(幕長戦争)が開戦となった。

 幕府軍は1年以上に及ぶ大坂滞陣に辟易しており、病気も蔓延して士気が停滞し、また薩摩藩を始めとする諸藩の出兵拒否にも遭っていた。幕府は散兵戦術に長け、薩摩藩の名義借りで購入した近代兵器を使いこなした長州軍に大敗を喫することになる。

 戦争の最中の7月20日、将軍家茂が脚気衝心によって大坂城内で急逝した。家茂の遺言は将軍候補として田安徳川家の7代当主田安亀之助(静岡藩初代藩主家達)であったが、まだ4歳であるため、和宮などが反対した。

 もう、誰の目にも後継候補は一橋慶喜しかいなかったが、7月27日に慶喜は徳川宗家の家督相続を承諾したものの、実は手に入れたい将軍職は固辞し続けた。8月8日、慶喜は参内して松平春嶽らの反対を退け、自らの長州への出陣の勅許を奏請し聴許され、孝明天皇によって戦争の継続が沙汰された。

徳川慶喜(Wikipediaより)

 しかし、九州方面での敗報が届くと掌を反し、8月13日に慶喜は関白二条斉敬に征長出陣中止の勅命を内請し、孝明天皇は当初難色を示したが16日に勅許した。慶喜はこれ以降、諸大名を召集し天下公論で国事を決める姿勢に転じた。

 8月11日、渋沢は従軍を命ぜられ、勘定組頭に御使役を兼任し御用人手附を拝命した。この時、渋沢は万が一に備え、手書および懐剣を夫人に贈って暗に永久の別れを告げた。

 なお、7、8月ころになると、慶喜が将軍継嗣と取り沙汰されるに至り、渋沢は喜作とともに黒川嘉兵衛に代わって用心筆頭になった原市之進に対し、その不可である理由を切論した。

 具体的には、今の徳川家は死に体であり、慶喜が孤軍奮闘してもどうすることもできず、あるいはかえって滅亡を早めてしまうかも知れない。ここは将軍継嗣を辞退して、慶喜は幼君の補佐役に徹し、引き続き禁裏御守衛総督として尽力するのが得策である。

 そのため、兵力・財力が必須となるので畿内あたりで50万石ないし100万石の領地加増を計画すべきである、と訴えた。しかし、原から慶喜に直訴することを勧められ、それが叶わず、失望して鬱積状態となった。

 9月7日、慶喜の宗家相続を踏まえて渋沢は幕臣となり、陸軍奉行支配調役に転身した。しかし、大所帯の幕府機構の中では渋沢の存在など芥子粒のようなもので、御目見え以下に格下げされ、直接慶喜に意見の具申はできなくなってしまった。

 その後、書院番士大沢源次郎を新選組とともに出動して逮捕し、武勇を称揚されたが、勘定方を外されたため、11月に至り致仕(引退)を決意した。12月5日に至り、とうとう慶喜は将軍に就任したが、幕府・慶喜の最大の庇護者である孝明天皇が天然痘によって25日に薨去される不運に見舞われた。幕府瓦解は秒読み段階に入ったのだ。