(町田 明広:歴史学者)
◉渋沢栄一と時代を生きた人々(1)「渋沢栄一①」
(https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/64521)
尊王志士・渋沢の誕生
文久元年(1861)、尊王志士としての活動を始めた渋沢栄一は、江戸に出向いて下谷練塀小路の儒者である海保漁村の塾やお玉が池北辰一刀流の千葉道場・玄武館に出入りを始めた。そこで渋沢は天下の有志と交流し、同志を獲得していった。そして、幕府を揺るがす大騒動を起こし、幕政の腐敗を洗濯して国力を回復することを計画した。とは言え、渋沢は志士活動を始めたことを父市郎右衛門に内緒にしており、この時は父との約束通り、約2か月後に帰郷している。
文久2年(1862)1月15日、水戸浪士や宇都宮藩の儒者大橋訥庵(渋沢と面識があったか不明)が計画した坂下門外の変(老中安藤信正暗殺未遂事件)が勃発した。渋沢の従兄弟で尊王志士となっていた尾高長七郎は、この事件に連座していた。
実は、長七郎はそれ以前に長州藩士の多賀谷勇と謀議し、上野寛永寺の輪王寺宮公現法親王を奉じて日光山に挙兵し、幕府を開国から攘夷に転換させることを画策していたのだ。長七郎は水戸藩を巻き込もうと考え、水戸まで出向いて、後に徳川慶喜の側近となる原市之進に協力を求めたが謝絶され、文久元年11月8日、宇都宮城下で大橋と密会して安藤襲撃に方向転換した。
長七郎は上州佐位郡の国領村に潜伏していたが、文久2年1月下旬、捕吏の探索が頗る厳しくなったため、渋沢は長七郎に切迫した情勢を伝えるとともに、京都に逃避することを強く勧めて同意を得た。よって、長七郎は信州経由で上京し、その後、即時攘夷を標榜する長州藩が席巻する中央政局の動静を、渋沢らに報告する役割を果たすことになる。