渋沢栄一 国立国会図書館蔵

(町田 明広:歴史学者)

 2021年の大河ドラマ『青天を衝け』の主人公・渋沢栄一。名前や功績は知られるものの、他の幕末志士と比べると地味な印象は否めない。しかし、渋沢こそ日本近代史において重要な人物であり、生涯を知ることでその流れを知ることができると言っても過言ではない。日本近現代史を専門とする著者が渋沢と、激動の時代を生きた人物を紹介していく。(JBpress)

渋沢栄一から見えるもの

 2024年から新1万円札の顔となることが決まっている、渋沢栄一を主人公とするNHK大河ドラマ「青天を衝け」が2021年2月から始まった。視聴率も好調のようであり、幕末維新史に関わるものとしてはうれしい思いである。

 ところで、渋沢について、多くの読者は「近代日本経済の父」であり、今に繋がる多くの企業の設立に関わった、といった程度のことしか、実際にはご存じないかも知れない。確かに、坂本龍馬や新選組などに比べれば、やや地味な印象は否めない。しかし、実は日本近代史において、渋沢は極めて重要な人物であり、渋沢を通して見えてくるものが少なくない。

 渋沢は農民に生まれ、尊王志士に成長し、一橋家(一橋慶喜)に仕官して武士となり、慶喜が将軍になることによって幕臣となった。明治維新後、静岡藩(徳川家)の家臣となり、明治新政府(民部省・大蔵省)に出仕して「官」の一員となり、しかし、「官」を辞して「民」として実業家の道を歩み、日本の富国強兵・殖産興業に尽力した。

 日本の近世から近代の変化は、幕藩体制(封建国家)から欧米的近代国家(立憲国家)への、アジアの小国から世界の強国への大転換であり、しかも四民平等の世の中となり、米から金に経済の中心が変わるなど、国民生活も激変した。

 渋沢の生涯は、まさにその疾風怒濤の流れをすべて体現した唯一の人物と言っても過言ではない。決して大げさではなく、渋沢を知ることによって、日本の近代のスタートやその後の在り方を学ぶことが可能であり、現代に生きる日本人に様々な示唆を与えてくれる傑出した存在、それが渋沢栄一なのだ。

 これほど重要でありながら、十分に知られていない渋沢栄一の知られざる生涯について、幕末期を中心にその人生を紐解きながら、4回にわたって連載させていただく。

生い立ちと渋沢家・家族

 渋沢栄一は、天保11年(1840)2月13日、安部信発を領主とする岡部藩(2万250石)武蔵国榛沢郡血洗島(現在の埼玉県深谷市)の豪農であり、非常に勤勉家で厳格な父・渋沢市郎右衛門、慈悲に富んだ母・えいの間に誕生した。

旧渋沢邸「中の家」 画像提供/深谷市

 ちなみに、血洗島と言う物騒な地名について、渋沢も何度もその由来を尋ねられたようだが、実は当時から分かっていなかった。筆者は、通称「チアラジマ」と言うように、度重なる利根川の氾濫のため地が荒れたとか、地を洗うように流れたことから名付けられたとの説を支持したい。

 父の市郎右衛門は、家業として麦作や養蚕の他に他家から藍葉を買入れ、かつ自家でも作り、それを藍玉に製造して信州、上州、武州秩父郡の紺屋に販売した。主に信州が得意先であったが、上州伊勢崎や近隣の本庄などへも進出していた。

 質屋・金融も兼業しており、こうした農工商・金融を営む豪農に生まれたことは、大実業家・渋沢の誕生に寄与したことは言うまでもない。また、母のえいは慈悲深い女性であり、ハンセン病の罹患者も分け隔てなく世話をしたらしい。その影響を大いに受けた渋沢は、社会福祉や医療事業に尽力することで母の生きざまを継承している。

 なお、市郎右衛門は領主・岡部藩主安部家に対する多額の献金を怠らなかったため、苗字帯刀を許され、名主見習役に昇進している。しかし、あくまでも農民であったことに留意すべきであろう。渋沢は豪農の家に生まれてはいるが、身分はあくまでも農民であり、武士への憧れは、いつしか社会に対する反骨精神を掻き立て、渋沢を尊王志士へと成長させる。